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自然保護説く神道からの警鐘セミナー

ニホンミツバチ復興プロジェクト発進!

NPO法人「にっぽん文明研究所」第七十三回セミナーの宗教新聞社の取材記事を掲載します。

 NPO法人「にっぽん文明研究所」(奈良泰秀代表)の第七十三回セミナー「ニホンミツバチ(和蜂)復興プロジェクト発進!」が二月十三日、東京・渋谷区の國學院大學院友会館で開かれ養蜂に興味ある聴衆で超満員になった。

 日本に生息する蜂の種類は四千種以上で、女王バチが中心の生活構造から必ず帰巣するミツバチは個体数の増減を確認でき、環境異変や悪化を知らせる指標生物である。最近、蜂の駆除やニホンミツバチの減少などの情報をテレビや新聞で眼にする機会が増えたが、日本だけでなく世界的に減少している。ミツバチは受粉交配で種子を作り、次世代に生命をつなぎ自然界を支えて大地の恵みを人類に与えてきた貴重な存在だ。

Photo  日本には縄文時代以前から生息する在来種のニホンミツバチと明治時代に輸入した西洋ミツバチの二種類が存在する。しかしニホンミツバチは西洋種に押され、農薬にも弱く、このまま減少が続けば植物との共生関係が崩れて生態系の崩壊が危惧されている。講演では講師全員が画像を駆使してそれぞれのテーマを語った。

 セミナーに先立ち神事「和蜂復興祈願祭」が挙式された。にっぽん文明研究所代表の奈良泰秀氏を斎主に神職有志が奉仕した。修祓の後、ニホンミツバチの守護神とする蜂子皇子命(東北出羽三山開祖)を降神、和蜂純粋蜂蜜の献饌、波知乃子王(はちのこのおほきみ)とも言う蜂子皇子の教えを継ぐ山伏が後世、出羽地方に広めた草木塔建立の経緯を交えた祝詞を奏上、玉串奉奠、撤饌、昇神、消灯、斎主一拝で神事を終えた。

 神事に次いで梨本宮記念財団の代表理事・梨本隆夫氏が登壇し、蜂子皇子と出羽三山について講演した。梨本氏は出羽三山の社家出身で旧皇族梨本宮家の養子となり祭祀継承者となった。梨本氏によれば歴代天皇の公的な記録で唯一弑逆されたのは第三十二代崇峻天皇のみ。蘇我馬子の放った刺客に殺された。「皇子の蜂子皇子は北の出羽国へ逃れると飛来した八咫烏が羽黒山へ導いた。そこで羽黒権現の啓示を受け、厳しい修行を重ねて月山と湯殿山をも開山させ出羽三山の基盤を築いた。それ以後千四百年余に亘り法灯を継承しているが、太陽の神の伊勢神宮に対し月の働きの出羽は国の鎮めとして北に鎮まっている。これからも国と皇室のために尽力していきたい」と述べた。

 小憩後、NPO東京ミツバチ研究会理事で養蜂家の松丸雅一氏が「ニホンミツバチ保護に求められる課題」について講演。松丸氏は二十年来希少なニホンミツバチ絶滅を食い止める保護活動に取り組み、里山にエコファームを作り飼育する独自の保護方法は注目を集めている。

 松丸氏は画像でニホンミツバチと西洋ミツバチの自然巣の相違、ニホンミツバチを誘導する廃材利用の丸洞巣箱の紹介、天敵スズメバチの生態、ニホンミツバチの保護サイクルなどを説明した。また松丸氏は平成二十三年六月から二十五年二月まで「ニホンミツバチによる福島県の放射線量のモニタリング調査」を大東文化大学環境創造学科と共同研究を行い、そうした活動はTⅤなどマスコミで紹介されている。

 次に「ネオ二コチノイド系農薬使用中止を求めるネットワーク」共同代表で造園家の御園孝氏が「農薬散布で急減するニホンミツバチ」を講演。御園氏は各地でニホンミツバチ捕獲保護の体験中にミツバチの大量死を知り、危機感から「ミツバチを救え!プロジェクト」を創設。映画「ミツバチを救え」を製作して全国で上映活動を行っている。

 御園氏は「二十一世紀に入り、日本をはじめ世界的に起きたミツバチの大量失踪にはネオ二コチノイド系農薬が疑われた。ジノテフラン系に変えて大量死は減少したが、農薬が原因と思われるミツバチの減少は続いている。緑の多い地域で農薬の影響で減少しているニホンミツバチが緑の少ない都心で生息する逆転現象が起きている」と語った。

 次に、現在は静岡県島田市在住の武田善隆氏が「ニホンミツバチと金稜辺」と題して講演。武田氏は三十年に亘りニホンミツバチが好む東洋ランに属する金稜辺の育成研究を行っている。かつては東京の永田町にニホンミツバチの巣箱を置いた都心の養蜂先駆者で、地方に移住してニホンミツバチの生態を観察しながら金稜辺の育成研究を続けている。金稜辺の毎年の開花は難しいとされていたが培養技術の向上で近年は比較的容易になったと説明。金稜辺の外敵のナメクジ退治には皿にビールを入れて置くと効果的という。ミツバチランと言われて人気の高い金稜辺の用土、植え替え、肥料や殺菌といったこれまでのラン育成の研究成果を画像で示した。

Photo_2  最後の講演は日本蜜蜂工房の主宰者で祖父の代からの養蜂家である小野俊英氏で、「新興国・東ティモールでの養蜂体験」と題し講演。ニホンミツバチ飼育を啓蒙する小野氏は平成二十五年の雨季と乾季に東ティモールに渡り、日本のODAの実務を担当するNGOやボランティア団体と協力して養蜂事業の可能性の調査を行っている。ミツバチの大量死を招く農薬に頼らない自然養蜂の環境創りの確立を目指しても、新興国の政情不安と貧困から農薬や化学肥料を使えない現地では燃料となる森林の伐採が進んでおり、将来的に蜜源縮小の不安につながる現状がある。小野氏は東洋種の生息南限の在来種養蜂には、地道な支援と指導が必要であると、貴重な映像を示して現地の状況を説明した。

 休憩後はフロアとのディスカッションで、にっぽん文明研究所受講生で和蜂復興担当の佐藤忠之氏がこれまでの活動を画像で紹介した。「各地でのニホンミツバチ捕獲保護活動と共に、奈良代表が永年祭事講習の指導をしている世界救世教いづのめ教団の自然農法センターへの紹介から五年前に聖地に巣箱を設置して毎年採密してきた。昨年十二月に教団の新穀感謝祭で聖地の蜂蜜を披露したが反響も大きかった。広島城祉をはじめ各地から巣箱設置の要望が寄せられ活動が拡がっている」と語った。

 最後に主催者代表の奈良泰秀氏は、現在設立を準備している神道神祇本廰傘下の神社には和蜂の巣箱設置を薦めると述べ、「百万年前の化石から蜂が発見されているが、現在の姿かたちと全く同じであり進化論などは無縁である。ミツバチは六角形の巣房の壁を作るが、立体的に見ると規則的に六角柱を組み合わせて底がピラミッド状に突きだしている。均一性をもち、無駄な隙間の無い幾何学的で合理的な巣と共に、天変地異をくぐり抜け、百万年前と同じ姿で存在しているミツバチは霊魂の不変性と同じであり、蜂が神の使いと言われる由縁だ」と締め括った。

 セミナー終了後もロビーでの談笑が絶えず、ニホンミツバチへの関心の高さが伺われた。

(宗教新聞 3月5日号 掲載)

「大麻解禁と医療革命・大麻草CBDオイル」

 麻は人類が繊維を得るために最初に栽培されたがその歴史は非常に古い。エジプトでは紀元前1万年頃には既に栽培され、王の墓に麻栽培の壁画があり、ミイラが麻布で包まれていることも確認されている。

 日本の場合、縄文時代草創期から前期にかけて(約1万2千年~5千年前)の福井県鳥浜貝塚の集落遺跡から麻の繊維や種子が発見されている。秋田県由利本荘市の縄文早期(約7600年前)の菖蒲崎貝塚では、縄文土器の底から炭化した麻の実が出土している。

 麻は短期間で天に向かい真っ直ぐ育ち、神聖で 強い生命力がある強靭な繊維で、魔を除ける呪力があると信じられていた。

壊れやすい土器の表面に麻などを縒(よ)った縄の模様を刻むのは、土器に食べ物を保管する際、魔 (食べ物の腐敗)を防ぐ為に魔除けの縄の文様を施したためと言われている。

 邪馬台国の卑弥呼は魏に麻の布を贈っているが、神社の注連縄や横綱の綱や土俵に麻縄が使われるのは、麻縄に魔除けの機能や意味を持っているからである。縄文時代から捨てる部分がなく生活に利用されてきた麻は、日本人の信仰心と習合して神社のお札や神事には欠かせない神具の象徴となった。

 その麻は大東亜戦争に敗れて上陸した進駐米軍によって禁止され、現行の「大麻取締法」が昭和23年(1948)に制定された。しかし日本に麻の規制を迫ったアメリカでは、現在、扱いが大きく変わって来ている。

 大麻は「産業用」「医療用」「嗜好用」等に活用されている。ガンやエイズの治療などに効果があると言われる大麻は、現在のアメリカでは「医療用」として合法的に使用されており、医療用大麻は全米23州で合法化されている。世界的には21カ国で合法的に使用され、更なる研究の対象とされている。

 そして「医療用」から進んで、昨年2014年1月からは、アメリカのコロラド州で「嗜好用」大麻の販売が合法となり、続いて7月にはコロラド州に倣(なら)いアメリカ西部のワシントン州でも全面解禁となっている。

 昨年の11月には保守的と言われるアラスカ州で住民投票が行われ、21歳以上の成人のみの「嗜好用大麻」合法化法案が可決されて今年2月24日から解禁となった。28gは所持可能で、自宅での栽培も6株まで容認される。同じく2月26日には首都ワシントンD.Cでも成人のみの「嗜好用大麻」が解禁となる。更には7月に5例目になるオレゴン州で嗜好用大麻が解禁になった。

 これまで厳しかったアメリカが徐々に解禁に進む方向性に比べると、解禁のための議論すら盛り上がらない日本はずい分遅れている。そろそろ封印は解かれるべきだ。

_0881_2  アメリカでは酒の販売と飲酒を禁じていた禁酒法時代があった。オバ大統領が「大麻はアルコールほど危険ではない。私も吸っていた!」 と云う 発言は話題となった。ワシントン州ではボトルに入ったマリファナ・コーヒーを売り出したが、続いて大麻の有効成分THCを含有したコーヒー粉を発売した。進みゆく時代と共に法律の改変は自然の流れだ。日本でも世界の趨勢に沿った法律の改正が待たれる。

 最近は「嗜好用」大麻解禁ばかりがニュースになっているが「医療用」の研究も進んでいる。大麻に含まれるカンナビノイドの薬理効果が世界的に注目されている。特に大麻に含有されるCBDの臨床研究では、てんかん、 認知症、 アルツハイマー、薬物中毒、ガン、 発作、 統合失調症などのさまざまな症状の改善が報告されている。

 世界で「医療用」に活用されている大麻だが、特に最近、若年層にも増加しているアルツハイマーや認知症に有効なCBDオイルの可能性は、日本のように高齢化が急速に進む世代には大きな期待を抱かせるニュースだ。

最近、日本でもCBDオイルがつくられるようになった。早速個人的に飲用しているが体調の改善が徐々にみられるようになった。

大麻の取り締りの厳しい日本だが、「医療用」大麻解禁のための運動を見守っていきたい。 (完)

“ニッポン・スピリチュアル”講話会配布資料より

『重陽の節供と菊の香り』

9月9日は「重陽の節供」。

 7世紀の末頃に中国から我が国に伝えられた重陽の節供は、元々旧暦の9月9日の行事で、菊の節供とも言われた。本来、菊は10月が盛りの花だから、いまの暦に旧暦の日付だけを当てはめ、9月の菊の節供といわれてもピンとこない。 重陽とは、陽の数が重なるという意味である。古代中国の陰陽思想では、奇数は貴に通じ吉祥の陽の数となり、偶数は陰の数とされた。一桁の数の最大の陽数である9が重なることで重陽、または重九(ちょうく)と言われた。

 中国の伝説がある。むかし、仙人が弟子に、“今年の9月9日にお前の家に災難がある。家の者に嚢(ふくろ)を縫わせ、それに茱萸(しゅゆ、和名:カワハジカミ)を盛って臂(ひじ)にかけ、高い処に登って菊花を浮かべた酒を飲めば災禍(さいか)を免れる。”と云うので、弟子がそのようにすると家人に災難はなかったが、家畜が身代わりになってすべて死んでいたという説話である。これが重陽の節供の起源とされる。のちに、この日には茱萸を身につけて山や丘に登って山野を眺め、菊花酒を飲んで長寿を願い、災厄を祓う風習となる。また、お経を菊の葉に書き、菊の夜露を飲み、童顔のまま齢(よわい)八百歳を保った菊慈童(きくじどう)の故事もあり、中国の宮廷で重陽には、茱萸を肘(ひじ)に下げ、菊酒を飲んで長命延寿を祝う行事を2日3日と続けて行っていた。

 菊の原産地は中国だが、原種は不明とされる。古来、日本には自生していなかったようだ。その証拠の一つとされるのが日本最古の歌集『万葉集』である。万葉集には4516首の歌が収められているが、自然を詠んだ歌も多く三分の一の、約1500首に植物の名が記されている。(ちなみに一番多いのは140首近い萩、次120首近い梅、意外に桜は少なく五番目で僅か40首余り)江戸時代の万葉集研究で業績を残した国学者・鹿持 雅澄(かもち まさずみ)は、万葉集には157種類の植物が載せられていると謂っている。しかし、この7世紀から8世紀にかけて詠まれた歌集の中に、菊を詠んだ歌は1首もない。それまで、日本に菊は自生していなかっただろうという訳である。

 8世紀には度々遣唐使を送り、大陸からさまざまな文物を導入し、天平文化を開花させた。菊は一この頃に薬用として中国から伝来したとされる。しかし、既に7世紀後半には天武天皇が崩ずる前年の九月九日に、『日本書紀』に重陽の宴の初見とされる“安殿(あんどの)の庭で宴”を催されたという記事があり、このように菊の伝来は、はっきりしていない。

 万葉集にあるように、当時は、花と言えば馥郁とした香りを放つ梅でした。9世紀になると、当時としては中国的な薫りのする菊は、瞬く間に平安貴族の心を虜にして競って栽培されるようになる。菊は上流社会で園芸的に栽培され、華やかな“菊花の観賞”は朝廷儀礼の重儀となっていく。そして時代と共に中国の故事を日本風にアレンジして“菊着綿(きくのきせわた)”という風習になる。菊の花を綿で包み、菊の香りの染み込んだその綿で身を清めれば、長寿が叶うというもの。菊の香りが延命長寿を促すのだ。日本人の感性に香りがフィットしたのだろう。

Photo_3  平安期に貴族に愛好された菊が庶民にも親しまれるようになったのは、室町時代の初期の頃と謂われるが、江戸時代になると、肥後菊のように武士の修道(しゅうどう)として菊が栽培されるよ

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うになる。京都の大覚寺で嵯峨天皇が自ら栽培した故事の縮れた花弁の嵯峨菊や、細い花弁が垂れ下がる繊細な伊勢地方の伊勢菊や、開花が進むにつれて花形が変化する狂菊(くるいぎく)の江戸 菊など、さまざまな種類の菊が生まれていく。

 菊は、野山に自生する野生菊と、イエギクと呼ばれる栽培菊とに分けられる。この栽培菊は、大菊(花径18㌢以上)、中菊(花径9~18㌢)、小菊(花径9㌢以下)と花の大きさで区別されるが、開花期でも春菊、夏菊、秋菊、寒菊などに分けられる。栽培菊で最も多いのが秋菊だろう。秋菊は、最近まで日が短くなると開花する短日性を持っていたが、品質改良や日照時間の調整などで周年切り花が生産されるようになった。

 菊を愛好した後鳥羽上皇が菊の紋をつけ始め、いつしか皇室の御紋章にもなった。現在では全国各地で菊花展が開催され、その数は数万とも謂われる。東京だけでも数百はあるようだ。菊は日本人にとって人気があり、また特別な花でもあるのだろう。     

奈良 泰秀     


世界日報・日本文化の歳時記 長月編    
“ニッポン・スピリチュアルの世界” 講話会 大島 櫻彩氏講話会 配布資料  より

『オリンピック追加競技候補の空手と、國學院・西原健吾先輩異聞!』

 猛暑から一転して初秋のような風情―。怠惰な長い休みから醒めてブログ再開!

 4ヵ月ほど前に月刊空手道に「押忍の系譜」を連載している大林俊紀氏(仮名)から、やっと私に辿り着いたというメールを貰った。大林氏は日大キックボクシング部ОBで健康食品会社経営の傍ら、キックボクシングのイベント運営にも携わっている。私と交流のある國學院キックボクシング部の後輩やスプーン曲げで一世を風靡したK氏とも友人だと云う。用件は空手部の伝説ともなり、語り継がれる西原健吾先輩の情報について―。

 西原先輩は私が入学した年に卒業したが、卒業後もよく道場に顔を出して型などより実戦さながらの自由組手を長時間させる厳しい指導をしていた。

  最近は女子の演武などを観る機会も増え、空手の社会的認知度も上がっている。“オリンピックの追加競技種目に”の声も聞こえるので、西原先輩の件はメールの内容から空手道の歴史を見直す一環かと思えた。

 西原先輩は私が大学に入学した頃、当時すでに渋谷を根城にインテリヤクザとして勇名を馳せていた安藤組の幹部だった。その頃の安藤組には映画スターのような話題性のある幹部が何人か居て、そのうちの一人が当時25歳の西原先輩だった。

 大林氏によれば1958年2月22日、タイ国バンコクのルンビニースタジアムでアーミーライト級チャンピオンと空手着で素手のまま戦った―、という記事が載った当時のタイの新聞を昨年見つけた。これについて日本では全く報道されておらず、大林氏は非常に驚いたという。日本で初めてムエタイと戦ったのは、それから6年後の1964年、極真空手の大沢昇、黒崎健時、中村忠の3人という記録が残っているとか。大林氏のタイの新聞の発見は、それまでの歴史を変えることになる。

大林氏は、外遊など考えられなかった当時、どのような経緯でタイへ渡航し、戦いが実現したのか非常に興味があり独自に調査中だったという。私はОB会の事務局長を16年務めたが、部員減少でろくな成績を挙げられない現状を嘆く私のブログ(第8回・國學院大學 空手道部)を見つけたという次第。いずれにしろ 空手とムエタイとの初めての対戦は、巷間云われていたようなスポーツ空手として急成長してきた極真空手ではなく、伝統派空手であったことの発見の意義は大きい。 調べてみると、大山道場から極真会館に組織変更した1964年にタイ王国へ黒崎健時らが遠征し、エムタイルールで試合をした記録が確かに残っている。 格闘技空手としての選手を育て、海外に派遣しては各地で試合を行い、名を知られてきた極真空手とは異なり、その当時はまだ空手は武道として認識されていた。西原先輩がタイで試合をしてから20年近く経っていた頃、私は寝袋を担いで北アフリカ・マグレブのイスラーム世界を放浪していた。そのときモロッコで、士官学校で柔道を教えている柔道6段の日本人武道家と出会い、ブラジルでプロレスと他流試合をしたという理由で講道館から破門された話しを聞いていた。当時、伝統派空手としては松涛館流・和道流・糸東流・剛柔流が四大流派とされていたが、確かに当時は空手にも破門があり得る武道だった。

 大林氏のメール以後、ОB会名簿をめくり電話をかけ、年に一度のОB総会にも出席して年長のОBに訊ねまわった。しかし半世紀以上前の話しで思い出すのも容易ではない。

 西原先輩と同期の先輩は、“タイに行ったのは覚えているよ、和道流か和道会の本部に尋ねてみたらどうだ”という程度の意見。久しぶりに電話をかけた福岡在住の二期上の主将だった先輩は、“スーツを新調した西原先輩を羽田に見送りに行ったな、どんな経緯か知らないが、確か九州の有力者があの試合を仕掛けた筈だ”という情報をくれた。同じく二期上の会計だった先輩は、“そんなことあったのか?”と全く覚えていない。かわりに当時の別の想い出話しを聴かされる始末だった。私と同期の2人は、“道場で一緒に写真見たよな”、“新聞を見せられた記憶あるぞ”というくらいで、あとは体調や近況で長話しになってしまった。西原先輩の一期下の先輩は、“先輩が安藤組の組員だったことは誰もが知っている。それだからあまり公けにしてこなかったんじゃないか”と云われる。

 正統派の武道空手である和道流の創始者・大塚博紀師範から直伝を受けた西原先輩のタイでのエムタイ対戦は、西原先輩がアウトローの世界にいたことと無縁ではなかっただろう。

 昭和38年(1963)9月、安藤組の大幹部で映画スター並みの人気があった花形敬氏が川崎市の路上で深夜敵対する組の刺客二人によって刺殺された。そして翌39年11月7日、西原先輩は青山のレストランで話し合いをしていた組関係者が恐怖にかられ震えながら放った銃弾3発で絶命した。組長の安藤昇氏は、その数年前に横井英樹襲撃事件で世間を騒がせ、1ヵ月以上逃亡の末に逮捕されて7年の刑に服し、西原先輩が凶弾に倒れた年に仮釈放で出所していた。花形、西原という組の両輪を失い、葬儀では九州から上京した西原先輩のご母堂に、“子が先に死ぬ最大の親不孝は、私の子を最後にしてください”と泣きながら訴えられ、翌月、安藤昇氏は安藤組を自主的に解散した。

 そして連絡を取り合い、大林氏を始め、後輩の國學院キックボクシング部ОBや、安藤昇氏の本を書いている作家の方などと渋谷のホテルで会った。当然、安藤組のことを含め古き良き時代の話しになった。ついでに空手が東京オリンピックの追加種目になる件については、悲観的な意見が出た。空手のことを多少でも知っていれば、空手には多くの流派があり、流派ごとに型や組手のルールの違いがあることも解る。試合の採点にも違いがでてくる。さらには伝統派空手では、相手にダメージを与えない程度当てるか、直接打撃しないで当てる前に止める「寸止め」を採用している。だが、これとは別に、1964年に大山倍達によって創設された極真空手は寸止めではなく、対戦相手に技を当てるフルコンタクトの直接打撃制を用いている。当てるか当てないかの差だが、この差は大きく、これまで極真と伝統派空手の交流を阻んでいた。伝統派の全日本空手道連盟はかつて二、三度大山倍達に加盟を勧めるが、フルコンタクト・直接打撃制にこだわる大山と、寸止めは譲れない伝統派と交渉はうまくいかず決裂した。

 またかつて大山は、極真空手を五輪種目に加えようと画策し、IОCに働きかけたこともあった。だがIОCが安全な寸止めに近いルールを求めたことで交渉が頓挫した経緯がある。「極真会館」を創設した大山は、存命中に世界120ヵ国以上に支部を創り、1000を超える道場を持ち、会員は1200万人と言われた。しかし、平成6年(1994)4月に大山が帰幽すると、後継者の座を巡り主導権争いが始まる。団体は四分五裂の様相を呈し、分裂した団体から更に派生する団体などが40を超えた。未だにその余震は続いている。

 そして今年の4月、空手のオリンピック採用を目指して伝統派と極真の歴史的・和解的な合意が初めてできた。両者が空手を五輪の舞台に上げることを最優先させた結果だ。今後、極真が希望すれば全空連から寸止めルールの指導員を派遣するが、極真側は今回のオリンピックの参加に向けてのみ寸止めを容認し、このルールで勝てる環境を整えていく方針のようだ。極真側では全空連の傘下に入ったわけでもない点を強調し、両団体がこれまでの確執を越えて友好団体として両立させていく姿勢を示している。

 ちなみに五輪の開催都市に与えられる提案権の追加種目を、組織委員会は二次選考で8競技に絞り込んだ。①野球・ソフトボール、②空手、③ボウリング、④ローラースポーツ、⑤スポーツクライミング、⑥スカッシュ、⑦サーフィン、⑧太極拳、の八種目。

 8月初めに各競技のヒアリングを終えているが、9月末までに組織委員会によって選考され、“1乃至は複数”の競技が推薦される。それをIОCに提案し、来年8月の総会で正式に決定される。各々、流派を名乗る空手団体は135を数える。果たして空手は推薦を勝ち取れるのか? もう直ぐ結論が出る。

(“ニッポン・スピリチュアルの世界”7月度 講話会「オリンピックおじさん・山田直稔氏講演会」.配布資料より)

奈良 泰秀 & エハン・デラヴィ氏の対談本が出版されました

縄文のパワーフィールドへPhoto_4
神道よ!今こそ<古来の本物の道>に戻るのだ!
著者:奈良 泰秀、エハン・デラヴィ

四六判ハードカバー
価格:1700円+税
ISBN:9784864711647
出版社:株式会社ヒカルランド

(内容紹介)
本物のシャーマニズムを日本人が忘れてしまった。明治政府の意向で八百万の神様の役割が統一化されてしまったからだ。ケルト民族末裔の意識研究家エハン・デラヴィが、古神道の真髄を奈良泰秀(にっぽん文明研究所 代表)から聞き出す。宇宙と直接つなが る知恵は、ここ日本の神道にあった。神道の潜在力を思い出し、世界に伝えていこう。神社の大同団結が日本人を活性化させる!



(目次より)
第1章 神社がもっと輝けば、日本はさらに活性化する
第2章 神道の源流は縄文にあり第3章 明治政府が潰した日本のシャーマニズム
第4章 現代の渡来人(外国人参入)が神社を救う!?
第5章 霊能者溝口似郎先生が教えてくれたこと
第6章 ハートを忘れた現代人は、鎮魂帰神を学ぼう第7章 古史古伝、日ユ同祖論、日本人の知らない日本
第8章 神道は日本の優れたシャーマニズム 

地鎮祭ビジネスを創り出したのは、私です!/明治政府の意向で、それぞれの神様のお役目が奪われた!/大祓詞──神道成立の背後にある縄文文化とは異なる稲作文化のルール/幽霊退治ひとつできない現代の形式化された神社神道/昭和天皇は神降ろしを秘かに行っていた!/ヒーリングもチャネリングもできない既成宗教では、現代人にマッチしない/日本の鍼灸学校で西洋医学的アプローチしか教えられなかった不満/広島の霊能者、溝口似郎師が提唱した水子供養は、やがてビジネス化されてしまった/仏教的要素を取り入れた神事は、今でもタブーになっている!/このままでは、ハートを忘れた左脳だけの新世界秩序が完成してしまう!?

【追悼】 『神道界の巨星堕つ』

 山蔭神道第七十九世教主 貴嶺宮名誉宮司 山蔭基央師帰幽

  今年の夏は厳しい暑さが続いた。7月の2週目頃、知人からメールで山蔭基央先生の訃報を知らされた。まだ公表されてないようですとあったが、半月ほどして「お別れの会」の通知を頂いた。7月4日に帰幽。享年89歳。

 心から惜しいと思う先生が逝かれた。

 蒸し暑く、時折り雨の降る8月25日(日) 午後1時、JR豊橋駅構内のホテルアソシァでのお別れ会に参列した。会場には白一色の花の中に敬愛する山蔭先生の遺影が飾られていた。

 定刻に開式。斎主を務めるのは山蔭神道上福岡斎宮宮司の佐々木望鳳馨(のぶよし)氏。佐々木氏はかつて靖国神社に数年間奉職されていた。父上は山蔭神道の重鎮で前の上福岡斎宮先代宮司の佐々木将人(ささきのまさんど)師である。合気道の達人だった将人師範も、今年2月に山蔭先生に先立ち84歳で帰幽されている。

 神道儀式は修祓(しゅばつ)から始まる。その時に奏上するのが祓詞(はらえことば)。神社本庁傘下の神社始め神道系教団などでとなえるが、この祓詞は大正3年に内務省が神社祭式を制定した際に採用されたもの。今回はそれとは異なる七柱の祓戸神のご神名をとなえる山蔭神道独特の禊祓詞(みそぎはらえことば)の奏上だった。古神道系の山蔭神道には秘儀とされる神事がある。大祓詞の隠された太祝詞事の如き神呪(かじり)を唱えるが、神事の行事作法は他の神道系と共通している。

 斎主の祭詞奏上に続き玉串奉奠。ご家族や関係者を始め全国から別れを惜しむ300名近い人たちが、遺影に玉串を手向け冥福を祈った。

 平成15年から5年程この紙上に「神道つれづれ」の連載をしたが、山蔭先生からよくお手紙を頂いた。私の師で霊能者でもある溝口似郎先生とは旧知の仲で、昭和30年代に共に学ばれ、土佐で幾度も話しをされていた。溝口先生は清貧に甘んじながらも敬神の念篤く、神に対する心構えの厳しさを常に説いていた。“良い先生を持たれましたね。”と師を評価してくださる山陰先生のお手紙からは、深い思いやりと暖かさが感じられた。つたない私の記事について貴重なご意見や過分なお褒めの言葉まで頂いた。手紙類は、大切に保管している。お励ましの手紙で気持ちを奮い立たせたことを思い出し、たまに読み返すことがある。

 以前、“「神道を矮小化」しないこと…”と、ご助言を頂いた。“…古代中国はアラビア伝来の天文学を取り入れた。これを学んだ天智・天武の両朝はかなり大きな視野で物事を見ていた。天智天皇の近江朝廷の選定は九星気学の奇門遁甲法に拠った(略)。土木建設の工事を好んだ重祚の女帝・斎明天皇が延べ三万人を動員して築造した〈狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)〉は、陰陽道を取り入れている。いま、中国は中国の中心をローマに置いて考えている。これは孫子・呉子の八陣法の内、鶴翼の陣。極西をアフリカに置き、極東をアメリカとし、鶴首を東南アジアに置いている。壮大な布陣である…。八陣法を拡大していくと神武天皇の御東征のスケールも見えて来る。どうか「戦略的展開」という視野でみてください…。”

 世界的な観点で神道を捉える山蔭先生からは、神道をベースにして世界を視る発想を教えられた。

 平成に入って國學院に戻り神道を学んでいた頃、現在は解体されたが校舎入口のショウケースに箱入りの『山蔭神道』がズラリと並んでいた。それがいつの間にか消えていた。山陰先生にお逢いしたときに顛末を云うと、「神社本庁と喧嘩しちゃったからねぇ」と笑っておられた。先生が神社本庁におもねる筈もないが、“神道”の見解に本庁と先生の間には根本的な相違がある。

 先生の謂われる神道とは、“国家経綸の大道”であり“顕密両道”でなければいけない。だが、“…明治維新により神道の本質は歪められ、本来の自然崇拝から離れ、天皇を戴く国家神道へと変貌を遂げた。内務省神道はキリスト教への模擬であり、このため奇妙な神道となり、結果、「みたま」を知らない神職の群れができた。このままでは神道は孤立して神社も滅亡する…”と謂われた。

 霊学を学ばず、幽霊退治ひとつ出来ず、これでは大麻(おおぬさ)を振る形容(かたち)だけの作法の神社神道になってしまう、という私の記事に、いまの神社神道に最も欠けているのはそれです、と慷慨された。

 “…それ以後、箱物建築で神社を大きくしてきたツケが廻ってきているのです。「カネ集め」の神社なら世界から見捨てられます。それはカトリックと同じです”とも…。

 一神教はいずれ行き詰る。世界は神道に回帰しなければ滅亡してしまう、世界の潮流を変へる神道論を出してください、と仰ってくださったが未だに果たせずにいる。自らも英文神道を刊行された先生の著書は多い。私共の講座に山蔭先生の「百ヶ日修行」を受け先生の書籍は全部揃えていると豪語する受講生がいた。全冊借り受けたが、本の数とテーマの多岐に亘ることに驚いた。目次から拾い読みをして返した本もある。今も送って頂いている『月刊己貴(めざめ)』は最近通刊790号を超えた。この己貴(めざめ)からは、山蔭ワールドを垣間見ている。

 以前、神道つれづれに山蔭先生のご経歴を書いた。終戦直後に中山忠徳卿より山蔭神道宗家を継承し、それを発展させて神道界にしっかり橋頭堡を築かれた。先生が帰幽されたいま闇夜の灯明を失った思いだが、日本神道が先生の標榜された“顕密両道”となるようご努力頂き、山蔭神道の更なる飛躍を願わずにはいられない。 

 山蔭先生、いろいろとご指導を有難うございました。篤く篤くお礼を申し上げます。どうか、ゆっくりとご休息ください。そして時折り、私どもを見守ってください。  合 掌

 

(宗教新聞 10月5日号 掲載)

 

精神世界と、エハン・デラヴィと…

 つい最近、カナダから戻ってきたエハン・デラヴィ氏から電話を貰い二度ほど会った。一度目は都心のホテルの会員制ラウンジ、二度目は私の住まいに近い新横浜でだった。
 エハンと会うのは、去年の7月に彼をメインに二人で講演会をやってから半年ぶり。そのとき対談の本を出そうと話しをしていた。

 エハンは9年前、うちの研究会の第34回セミナーで雅楽や日本舞踊や巫女舞などの“和文化の集い”に知人と一緒にやって来た。紹介され、日本語が流暢なので急遽「外国から観た日本の神道と文化」のテーマをつくり、私の講話の時間をそれに替えた。飛び入りで、締め括りの講演をして貰って以来の付き合い。
 そのとき、エハンには、当たり障りのない“外国人の眼には神道や日本文化はどのように映るのか”、といった軽いテーマでの話しをお願いした。関西弁を交えた外人の洒脱な話術に会場が沸いたが、日本文化を多面的に研究していることは直ぐに判った。来日して日本の文化に非常に興味を持ち、禅や弓道も学んだと言う。その程度のことは多くの外国人もやっている。だが、東洋医学への興味から鍼灸師の国家資格を取得した、となると、並みのひとの出来ることではない。

 エハンはイギリス・スコットランド生まれでケルトの血を引いている。神道とケルト文化との共通性や類似性(自然崇拝や多神教的な神観)などを研究している日本の学者を知っているが、エハンは現在の多様化しているケルト文化をベースに、日本の精神文化との共通性や違いを視てきたようだ。
エハンがこんな話しをしていた。
 日本に来て、駅員に古びた小銭入れを差し出して行き先を告げ切符を買おうとした。駅員は小銭を数え切符代を取り、それから顔を見て云った。“大丈夫ですか?”。訊く意図が分からない。“何が…?”。切符を買うと小銭入れには40円しか残らない。所持金が40円になってしまうけど大丈夫ですか?、という心配を駅員はしてくれていたことに、やっと気付いた。我われならそれ程の気遣いとも思わないが、エハンは、このようにさり気なくやさしく気遣う精神風土の国は世界中どこにも無い、と云う。さり気ない気遣いや奥ゆかしさや譲り合いといった古来伝えてきた日本人の精神性を、彼は美徳として高く評価している。

 半年振りに会ったエハンは、去年の暮れに亡くなった私の長女のことをしきりに気にかけて慰めてくれた。そして自分も還暦だし、今回は日本で骨を埋める積りでカナダから戻って来た、と云う。近況を話したあと、エハンが妙なことを訊く。
 “日本の精神世界のひと達はどの位いると思います?”。
つまり、オカルトや「ムー」や、90年代から急に知られるようになった「日月神示」、フォトン・ベルトやアセンションなどを認めて支持するひと達のこと…。
 “さぁねぇ…”。
 “この精神世界の支持者が、4万人ですよ、たったの4万人!…”。
 この人数は大手広告代理店の調査の結果でたぶん正しい数字だそうだ。エハンが饒舌になった。本を30冊以上も出版しているのに、世間には思うように“自分の想い”が伝わらないことに気付いた。伝えたい思いはたった4万人の世界のなかで、ただぐるぐる廻っていただけではないのか…。この4万人の世界からより大きな世界に飛び出して声を上げないと、自分の想いは拡がらない。日本のことをもっと知らせて世界との架け橋になるような、大きな活動に繋がらない…。

 フォトン・ベルトやアセンションを取り上げて広めたのは、エハンと、これも知人の渡邊延朗氏だ。それらは4万人の世界から飛び出して少しは世間に喧伝された。ひと時は精神世界の定住者も支持者も追随してこれをこぞって唱えた。
 しかし、世間でのアセンションの関心も、アメリカ探検隊がたった一度それを否定したことで急速に萎んでしまった。さらに去年の暮れ、アセンションとリンクした世紀末論の横行に、アメリカ政府が公式ブログに風評を否定する記事を発表した。何も起こさないアセンションは今年に入りすっかり影を潜め、過去のものとなってしまった。東北の震災が原発問題などを表面に顕わにし、揺れ動いた政治も政権が変わり、2012年は一つの区切りを示す年ではあった。特に精神世界に意識変革を促したことは確かだ。
 エハンは去年の早い時期からアセンションに触れながらも、次ぎのテーマを模索していた。ちなみに半年前の講演会のテーマは、メインのエハンが『2012・日本終末論とユダヤの光』。私は『月は東に 日は西に』を題名に“失われた十支族と日本”と、マニアックな講話を選んだ。グローバリゼーションの計略が進められているというなかでのイスラエルに、エハンは関心をもっていた。
 しかしエハンのイスラエルへの想いは届かなかった。時期尚早だったのだ。東から射す光は、西のイスラエルの開かずの門にまだ届かない。

 話しの途中でエハンは鞄から1冊の本を取り出した。今年1月31日付けで出版したばかりの『日本を襲うテロ経済の本質』。表紙に、…日本を護るためにデフォルトした国・アイスランドを徹底取材して掴んだ新事実&世界を救うアイデア…、とある。世界で社会制度が最も成功した国・人口32万人のアイスランドで金融システムが暴走。たがのはずれたマネー・ゲームの果てに2008年末、国が破綻状態になった。これは、国際的なトリックスター(詐欺師)勢力によって仕組まれた陰謀だと謂う。その詳細は、エハン節が冴えて面白い。エハンはこの本をJ・C・ガブリエルのペンネームで著している。今年は巳年だから脱皮して新しい姿で活動する…、という意気込みだった。

 そして4、5日前に二度目に新横浜で会ったとき、エハンは少し憔悴気味だった。胸襟を開いて、といった日本的感性をエハンは充分理解していた。悩みは誰もがかかえている。明日が見えない将来への不安の影が、いまの日本を覆っている。エハンの苦悩も垣間見える。だがエハンはこれを掃うすべを、きっと見つけるだろう。

 今後の方向性は自ずから決まる。
 これから知日派で親日のエハンには、“日本の精神文化大使”の役を是非やって貰いたいと思っている。エハンは市井の生活から観た、文化の源泉にある日本人の精神性とその歴史を語れる数少ない外国人のうちの一人だ。いぶし銀の持ち味で、日本人に日本の文化を伝えてほしい。文化を知り、それを学ぶことは、内向きで自信のない日本人が、失いかけている誇りを取り戻すことに繋がっていく筈だ。
 
 我われの祖先は、日本の気候風土が生んだ自然環境と共生し、大自然万物に坐します神々を敬うこころを育んできた。そのこころが現在の譲り合いやさり気ない気遣い、奥ゆかしさに繋がっている。世界的な環境安全保障機構を創り、その象徴には日本の天皇様がふさわしいと発言されたのはヘブライ大学のベン・アミー・シロニー博士だ。世界の自然保全を語れるのは日本の神道だといつも云っているが、そのような自然環境問題で世界からの発言を促すための“日本人の精神性”を、日本から世界に向けて発信することも、エハンはできる。
 いまの若ものは自分の国の文化にあまり興味をもたない。独自の文化を創り出してきた精神性を外人に説かれれば、興味をもつ者も出てくるに違いない。
 

 友人エハン・デラヴィの今後の活動を期待したい。

ニュースレターから…

  一ヵ月ほど前にツイッターに残しておいたが、評論家の茂木弘道氏から定期的にメールでニュースレターが届く。氏は「史実を世界に発信する会」の事務局長を務める。この会は、“英語ネット圏の「反日プロパガンダ」に対抗するため、史料に基づく日本語の文献をプロが翻訳し、日本への誤解や中傷を回復する著作・論文を纏めて世界に発信する”活動をしているとか。

2日前に届いたメールのタイトルは、“中国人はなぜウソをつくのか ”。北村稔・立命館大教授の小論文と、中国人で九州大に留学して工学博士号を取得した林思雲氏との対談録。
 ―「この中国人のウソつき症候群の心理的分析を歴史にさかのぼって検討したのが、この対談・論文」―。なのだ。
そしてそれは、“結論的には中国人の精神性の徳目の一つとされる「避諱」(ひき)にいきつく”という。
 “これは隠すとか、避けるといった意味で、国家や家族のために不利なことは、事実を曲げてでも隠さねばならない…、それが正しい、という考えである”。さらに、“身内の体面を汚すことはあってはならない。「正直」であるということは、この考え方の前では重要ではなくなる。国家にとって都合が悪いこと、不名誉なことは一切明らかにしてはならない、という「倫理観」である。”と断じている。
(この論文はここ:)http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Chinese-to-Lie.pdf

そして、“独特な(?)倫理観に基づいて積極的にウソをつく中国人”を知らなければ今後の方向性を見失う、と警告している。それを理解しないと、“日本人のみならず、世界中の人たちもとんでもない見当違いをすることになる。”

  きな臭さが日増しに漂う尖閣に就いても、中国を以下のように糾弾している。
“現在、中国政府は尖閣列島を自己の領土であるというウソを平気で主張し、強引にそれを既成事実化しようとしている。”
この意見に異議はない。大方の日本人はそのように理解している筈だ。
“…世界中の人々にこれは全く根拠のないウソであること、こんなことをうっかり許すと大変なことになってしまう!”。そのことを世界に知らせていかなければならない、とは尤もな意見。

そして尖閣問題では、“その絶対的なウソを示す5つの根拠を、すでに我々のサイトでは発表している”。と、その資料を開示している。
(その、[動かぬ証拠5点]:)
 
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Senkaku-Incontrovertible.pdf

この動かぬ証拠となる5点は、尖閣列島の日本領有を中国自身が示している証拠資料。
そもそも、“尖閣列島は1885年以来、日本領土の琉球列島の一部として認められてきた。”それが“1971年、中華民国・中華人民共和国が突如として尖閣列島の領有権を主張するようになった”。
この尖閣列島附近の海底に天然ガスなどの資源の存在が国連の調査で報告された為だ。

それ迄、清朝から現在の中華人民共和国に至るまでは、日本の尖閣領有に異議を唱えたことも無いし、中国がその領有を主張したことなど一度も無い。それは“彼らが尖閣は日本領と認めていたためである”のだ。

その裏付けの証拠となる資料とは、
1)「尖閣群島」「魚釣島」として日本名での表記がなされた1960年に北京市地図出版社刊行の『世界地図集』の存在。国境線も、与那国島と台湾本島の中間に引かれている。
2)1965年に、国境線の位置と日本名の表記から尖閣諸島を日本領と認識していたことがハッキリわかる『世界地図集 第一冊 東亜諸国』の存在。台湾の「国防研究会」と「中国地学研究所」が共同で出版した。
3)中華民国長崎領事からの感謝状の存在。注としてこれは“大正8年(1920)、魚釣島附近で遭難した中国福建省漁民31人を、魚釣島でカツオ漁を営んできた古賀善次氏らが救助して、全員無事に送り返したことに対する中華民国長崎領事からの感謝状”。そこには、日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島と明記されている。
4)“1969年、中国政府によって作成された機密扱いの公式地図では「尖閣群島」は日本領とされている”、と地図を副えた2010年9月15日のワシントンタイムスの記事。“北京政府が金魚台列嶼は中国領であるとの最近の主張を危うくするものだ。この地図は、東京側の領有権主張を支持するものだ”と同紙は論評している。
5)は1953年1月8日の「人民日報」の記事。当時の、“琉球群島の人民がアメリカ占領に反対闘争”の記事で尖閣を琉球群島の領域に記している。

いま、日本の国力は萎えつつある。稚拙な政治運営を声高に批判されているが、右往左往しながらの大衆迎合の政治では明日への展望など無い。この侭では日本は前に進まない。
以前、ローマのタクシー乗り場で車は来るのに“30分も乗れずにいるんです”と途方に暮れていた中年の日本人女性が居た。乗ろうとすると横から来て別の人が乗り込んでしまう。西欧人に対して気おくれもあるだろうが、日本人の“謙譲の美徳”なんて海外では滅多に理解されない。乗り込もうする人を抑えて車に乗せたが、郷に入れば郷のやり方を理解するしかない。日本の近隣諸国と、日本の道徳感などでうまくやっていこうなどと思うのは幻想だ。経済復興に手を貸した中国や韓国に侮られる現状に“金持ち喧嘩せず”などと鷹揚に構えているときでは無い。

いまなら未だ間に合う。日本は高い技術力と経済力を持っている。世界中に眼を光らせている米国との、寄らば大樹の日米安保だけでは心許ない。自衛力を高めるため、日本を縛っている条約や規制を取り払い、日本の身の丈に合った国の護りをすべきだ。
戦前、霊的国防を唱えた宗教者も居たが、神風頼みではいけない。日本の国を、人口減少と共に衰退していかない国にするため、我われは真剣に国の行く末を考えなくてはいけない。

日本の歴史や領土についてもっと関心を持とう。

神社参拝代行の是非 ②

―「講の成立と代参について」―

日本の習俗として定着していった信仰支援の集団である講などでは、代参に村落の信仰心が籠められていた。送り出す村民と代参者とは霊的に繋がっていた。祈りを託す代参が、共同体の心の拠り所だった。

四国で生を享けた弘法大師が、四十二歳で霊地八十八ヵ所を開いた。そこは大師への信仰から巡礼参拝する遍路となった。

これを代行する業者が居る。生業として成り立っているかは分らないが、既に市民権を得ているようだ。金額も高そうだ。

戦後、道路が整備され、徒歩から車での巡拝が可能となり、次第に信仰性を薄めた観光化された巡礼ともなった。千四百キロの道程を巡拝するのは、確かに肉体的にも物理的にも負担が大きい。時間のかかる巡拝を、途中か或いは最初から身代わりを頼みたくなるのは解らないでもない。信仰が昂じてと云うより、信仰の希薄化が、このような遍路を代行する職業を生んだ。

だが、四国巡礼は弘法大師の追体験を願う形容あるものへの追慕だ。巡礼代行の譬えは悪いが、スターならぬ信仰の追っかけを依頼するようなものだ。代行を頼んだとしても、信仰の行脚の疲労も無く、聖なる土地の空気や風を感じることも無い。大師信仰が昂じて巡礼代行に行き着いたと思いたいが、そこに血の通った真の信仰は無い。それは単なるファッションで自己満足に過ぎない。かつて業病とされたハンセン病の人たちが、崩れかけて変形した顔や手を隠し、偏見と闘いながら遍路を続けた。救いを求める信仰こそが生きている証しだった。

そのような信仰心が代行の依頼者に多少でもあれば、依頼を思い留まる筈だ。

そして、言われている受験合格の代理参拝だが、繰り返しになるけど金銭だけで繋がった赤の他人の代参者に、祈願者が望むような神威を戴けるとは思わない。そこには講や親分に代って為される真摯な祈りが無い。それは単なる気休めの代行だ。

参拝に行けないほど魂の余裕が無いようなら受験後の長い人生が心配、これは“霊的替え玉受験みたいなものではないか”とツイッターに書き込んでいた受講生がいたが、全くその通りだ。交通が不便だった時代ならいざ知らず、鉄道や高速道路が発達したいま、五体が満足で本気で神に祈る気持ちがあるなら、自分が参拝して神前で頭を垂れるべきだ。

或いは、身体の不自由な人や病弱な人が代参を必要とする場合もあるだろう。真剣な祈りと願いを、神に聞き届けて貰うための代参を、身内や親友に頼む場合もあり得る。神仏を問わず、真心を尽くす祈りには敬虔さが伴う。そのような信心を持っていると依頼する方も相手を選ぶだろう。弘法大師信仰から成立した遍路の代行が広告などで容認された観があるのに、神社での受験合格祈願の代理参拝では何が問題になるのか。仏教と神道とでは違いがあるのか…。

仏教は6世紀に教義教典と共に伝来し、国家の奨励もあり瞬く間に全国に拡がった。釈迦の教えは次第に日本的に潤色されていった。教典や理論に忠実で戒律を厳守する自己修養的なチベット仏教や東南アジアの上座部仏教と、日本に根付いた仏教とは明らかに違うところがある。本来、仏教は先祖崇拝など言っていない。お盆や彼岸などは日本古来の習俗を仏教化したものだ。更に、大自然と四季の移ろいの中で過ごして来た我われ祖先の持つ“秘すれど尊い”という眼に見えぬ神に抱く畏敬の念を仏教は取り込んだ。そしてそれは日本の精神風土に合わせて秘仏化していった。

東南アジアやチベットなど他の仏教国では装飾されて鎮座する仏像が多い。それに較べて日本の仏像は露出度が少ない。普段は本尊を厨子に収め、日を決めて参拝者に公開する“開帳”という習慣ともなった。中国では文盲の民衆に仏教劇を見せて布教を計ったが、仏像や伽藍や劇など仏教は視覚に訴えるところがある。各地に建立される寺院に倣って神社も創建されていく。そこには寺院の仏像とは違い、神社に祀られる神の姿は眼に見えない。日本人の心性の基底には、自然のなかの見えない神への畏敬が、縄文時代から培われていた。自然のなかの神奈備や磐座に降臨していた神は、集落近くに創られた神社という空間に鎮まり、人々はそこに詣でるようになる。神社に鎮まった眼に見えない神は、人々の信仰心に支えられ心の拠りどころとなった。

以前、師の先々代宮司が言っていたことを一度コラムに書いたことがある。

「仏教とは仏の教え。神道とは神の道。道を極めるには難しい…」。神道に教義教典は無いが、その観念が答えの方向性を示してくれる。それはいつも云っている『中今』と『惟神』。

中今とは神道の歴史観でもある。悠久の歴史が進展して行く中で、自分が生かされているいま現在が最も価値あるもの。それ故いま現在を力いっぱい充実させて生き、自分の人生を価値あるものにするため一層の努力する、と解釈されている。また、惟神には諸説あるが、大意は、おのずから神の御心・意志を推し量って生きる、ということだ。善悪良否を判断するとき、自分は神の御心に恥じない行動を取っているのか、と自問すればいい。今回の未曾有の大震災で見せた日本人の他人への思い遣りは、先祖から受け継いだ心の底にある惟神の精神が顕われたものだ。

受験シーズンには天満宮系神社に参拝者が増える。天満宮祭神の菅原道真公は政敵の讒言で九州大宰府に左遷され、慷慨の2年を送り没した。その後の異変は道真公の祟りとされ、怨霊を鎮めるために祀られる。時代と共に怨霊は影を潜め、頭の良さを見直されて天神となり受験の神となった。菅公は弘法大師と同じようにその人となりを知ることは出来る。だが神社に祀られて神話など古来の見えない神と同様の神の扱いを受けている。

神道と仏教を可視と不可視とに分けるのは乱暴だ。だが、師の謂う見えぬ神の道に分け入ることは難しいが、無心な祈りはその足許を照らしてくれる。

代参を語ることで祈りに仏教と神道の微妙な差異を知ることが出来るようだ。中今と惟神の精神から、受験の合格祈願の代行などが許される筈も無いことは自明の理だろう。

 

 

神社参拝代行の是非 ①

―「講の成立と代参について」―

 
先週の火曜日、國學院の院友会館で2,30分ほど日本テレビ午後の情報番組・ミヤネ屋の取材を受けた。その収録が昨日放映された。お笑い番組などでの露出はなるべく控えているが、今回の取材の内容は“受験の合格祈願を代行する業者の代理参拝をどう思うか、その行為に賛成か反対か”がテーマ。

 神社に行く時間を勉強に充てた方がいいと云った受験生や、神社も何か方法を考えたら、と言った識者も居たが、結論から云って二者択一なら当然反対だろう。

 依頼者に真摯な祈りが無く、金銭だけで繋がる赤の他人に頼んだ祈りにご利益があるなんて思えない、だから反対!。

 こんなの気休めの代行だ。神さまを名目に商売するな、といつも講座で言っているが、代行業者は違法では無いからと止める気はないようだ。神社側も座視できず困惑している。とは云うものの需要と供給のバランスもあるし、そうとばかり云っていられない現実もある。

  大きな神社には参拝者も多く集まる。かたや教員や会社員との兼業で親から受け継いだ小さな神社を守っている例も多く、数からすれば圧倒的に小規模神社の方が多い。今回は大きな神社の悩みだ。かつて神社を束ねる神社本庁が、神札やお守りを郵送するのは尊厳を損なうと自粛を求める通達を出した。だが、現在は当たり前のように神札やお守りの郵送は行なわれている。役所のような名称だが民間の一宗教法人に過ぎない神社本庁では強制力が働かないのか、傘下の小規模神社で通達を無視したのか、或いは神観の考え方が違うのか、神札やお守りの郵送はなし崩し的に行なわれている。旧官国幣社でいまは別表神社と称する大規模神社から評議員や役員を出している神社本庁の指導部と、傘下の大多数の小規模神社との間には思惑に違いがある。遠方で不便な場所にある神社のご神徳を伝えるために、神札やお守りの郵送は当然認めるべきだ、と云っていた神職が居た。いまどうなっているか分からないが、神札のプリントアウトを考えた神社もあった。今回の代行参拝のことでも、神札やお守りの頒布率が上がればいいと思っている神社もあるかも知れない。

 他人に代って詣でる代参のルーツは、「講」の存在に行き着く。いまの國學院にはたいした先生は居ない、昔は凄い先生が何人も居た、は私の口癖だが、かつて講について詳しい先生が居た。資料を探しながら講について書いておきたい。

 講の起源は奈良時代に遡る。当時、伝来した仏教の興隆を計りながらも、国家が寺院や尼僧に対して管理統制を行なった。国家主導による国家仏教体制を目指したのだ。

 その一方、天台宗はじめ奈良仏教の僧侶たちは、国家鎮護や護国の教典の研究に勤しんだ。このように仏典を研究して同じ信仰をもつ集団を指して、講と言った。やがてその信仰集団に公家たちが加わり、寺院に公家たちが集団で参詣するようになる。

 平安時代になると、仏教的な起源をもつ講は、次第にそれぞれの地域で古来の原始的な自然信仰形態と習合するようになる。それが田の神講、山の神講、地神講、海神講、日待講、月待講などとも変容していく。

 更に、集落の氏神や鎮守を信仰する講とも言うべき氏子集団、地元の観音堂や地蔵堂での観音講や地蔵講、阿弥陀講、念仏講、大師講、そして他郷の名刹などに参拝する講など、その土地に密着したさまざまな講が地域社会から発生し、その土地の風習として定着していった。のちには一つの共同体集落で、幾つもの講が併存する状態ともなる。

 このように地域社会から発生した講とは別に、次第に外部の働きかけで出来た講が各地に現われる。

 日本古来の原始的な山岳信仰と、仏教の密教的信仰とが習合した修験道の影響は大きい。山中に奥深く入り修行を積んで霊験を習得し、この呪力をもとに救済活動を行なう修験者が、村落へ出て講を組織していった。縄文から続く、原日本人の大自然の山や森や磐座に対して根付いている山岳への信仰心が、民衆を霊山の参拝へと向かわせた。

 修験道は平安時代には形を整え、各地に霊山を開いていった。東北の出羽三山、金華山をはじめ、榛名、二荒山、笠間、三峰、大山、戸隠、秋葉、富士、立山、御嶽、白山、熊野、愛宕、大山、三輪、大峰、金峰、石鎚、霧島、英彦山等々、各地で修行者の道場が建立され、そこに登拝を目的とした数多くの講が出現した。

 中世には、霊山信仰を勧誘する修験者と同じように、伊勢の神宮や熊野社が、参詣を勧める下級神職である御師の活動で各地に講を組織化していった。この伊勢講や熊野講に続いて近江の日吉社、大和の春日、京の賀茂、石清水八幡、地方の金刀比羅、稲荷、大宰府などの有力社の講も次々に創られていった。神道的要素を備えながらもそれぞれ特徴のある信仰支援の集団となった。

 更に時代と共に多様化する講は、一方で商人や庶民の頼母子講や無尽講など相互扶助的な組織ともなる。講は宗教や経済活動をする仲間の一呼称となり、近世には同業者の集まりである恵比寿講や大黒講がうまれ、遊びのための集まりが、将棋講、無礼講などとよばれるようになった。

 近世以降はさまざまな形態の講がつくられたが、その土地の慣習として、講に加わると一人前の村人として扱われる例が多い。村落に住む権利と義務をもつ証しともなったのだろう。講は祭礼や集落の寄合いの準備や世話、屋根葺き、葬儀の協力など、共同体の扶助的な機能を持つようになった。

 そのなかで信仰集団の講は、神社などに参拝して祈願するのが目的だ。その講に所属する全員が参加して参拝する総参りの総参講が理想だが、遠隔地や交通の不便な処では、参拝に代参者を立てる代参講なども出来てくる。

 代参とは他人に代って神仏を参拝することだ。もともと習慣として、各地の講が信仰する社寺に、一生に一度は参拝するものとされた。土地により違いはあるが、代参者に選ばれると本人とその家族には、幾つか守る規則があった。代参者となるとその期間は潔斎が求められる。代参者の留守宅の物忌みも厳しい。出発の際には講としての神事の拝礼がある。直会があり終わると代参者は集落の境まで送られる。代参者は講の代表として崇敬する神社に参拝して祈祷し、神楽を修め、神札を受けて帰郷する。講の人たちが出迎え、会食して神札などを配る。

 当然だがこの代参には地縁・血縁に繋がりのある者が選ばれる。そして講の代参者が受けた神威は、講の人たちに平等に行き渡ると信じられていた。

 地域共同体から一定の時期に出向く代参は、年間の行事として決められていることが多い。なかには清水次郎長と森の石松のような上下関係から、不定期に代参に出ることもあった。

 いずれの場合も、送り出す方と代参者はしっかりと信頼の絆で繋がっていた。祈りを託す代参には、村落そのものの信仰心が籠められている。それは心の拠り所として共同体のなかで培われ、習俗として歴史を重ねてきた。
 

        未完・次回へ

 

 

 

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