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麻と大和の心

0061  麻の歴史は古い。最古のものは縄文草創期(13000年~10000年前)の大麻製で、縄として使用されていた。7600年前の早期には麻を繊維化しており、前期(6000年~5000年前)には編み物の材料や、種子を食料としたことも土器の付着物から判明している。麻は古くから繊維や食品としての果実、油の化工などに利用されてきたが、大自然の神から授かった神秘な霊力の籠る神聖な植物であり祭祀にも欠かせないものとなった。縄文から続く麻の神聖さと神秘な霊力は、稲作と共に移住してきた天孫族に継承された。

 天孫族が渡来した以前の縄文時代は故意に隠蔽されて来たとも言われている。いまの神道の起源は稲作伝来のこの弥生時代に在る。稲作の伝播は各地に拡散していく。“日本民族は農耕民族”という概念は神道に大きく作用する。

 神話に誰もが知っている天の岩戸開きの場面がある。スサノオの悪行に耐えかねて天照大神は天岩戸に引き篭もってしまう。世界は真っ暗闇となりさまざまな災いが起る。神々は天照大神の再現のための相談をして儀式を行なう。天の香具山の榊を採り上枝に勾玉を、中枝には八咫鏡を掛け、下方の枝には楮の白い幣と麻の青い幣をさげ、その前で天児屋命が祝詞を奏上する。これが神道祭祀の原点となるが、麻は神に捧げる神聖で尊い幣であることが解る。このとき、天宇豆売命が桶を伏せてそれに乗り、踏み鳴らして舞いトランス状態になる。これが巫女舞のルーツ。この桶は乙女たちが紡いだ麻を入れる用具だった。

 麻は神話の時代から身近なもの。そして天に真っ直ぐに向かい逞しく早く成長していくさまに、当時の人々は尊い生命力を感じ、そこに呪術性をも見たのだろう。

 古代人の精神性・感性を伝える4500余首の『万葉集』には、植物を詠んだ歌が数百首ある。そのうち麻を題材にした歌は多くて約五十首ある。春に麻の種を植え、初秋に刈り取る栽培から紡いで織る全行程は、当時の女性の仕事だった。

○ 庭にたつ 麻布小衾(あさて こぶすま) 今夜(こよひ)だに 夫寄(つまよ)しこせね 麻布小衾(あさて こぶすま)  【巻14-3454】  
〔庭に立てた 刈り取った麻で作った夜具よ せめて今夜だけでも愛しいひとを引き寄せてください!。麻でつくった小さな夜具よ〕

○ をとめらが 積麻(うみを)の 絡垜(たたり) 打麻懸(うちそか)け 積(う)む時無しに 恋ひ渡るかも  【巻12-2990】
〔乙女らが麻糸を紡ぐとき 三本の柱の糸巻き用具で 打って柔らかくした麻を丹精込めて紡ぐように 飽きることなど無く 恋し続けるのよ〕

○ 麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 積(う)まずとも 明日きせさめや いざせ小床(をどこ)に  【巻14-3484】
〔麻の糸を桶いっぱいになるまで紡がなくとも 明日お着せするわけでもないでしょうから さあ 誘ってください 寝床に!〕

 当時の若い女性は大らかに自らの意思を詠み、その想いを麻に託している。
最初の歌は京に赴く旅の途上にある夫を想い、夫が居るときと同じように敷いてある麻の夜具に、離れている二人の媒介を願う女の情念が滲むような呪歌だ。麻の夜具を常に敷いて置くのは夫と共に寝るという願いと、夫の浮気防止のための呪術だ。

 二番目の歌は、何人かの乙女たちが、打って打って柔らかくなった麻を細く裂き、それを繋いで糸にする長時間の労働のなかで、積(う)み出される麻糸にそれぞれ自分の想いを託す。休むことなく倦むことなく、真剣に作業する乙女たちが向き合うのは麻。神に仕える巫女の所作のように辛抱強く麻糸を紡ぎながら、抱いた恋心の実現を願う。いつまでも想いが飽きることなく恋い続けている。神聖な麻だからこそ心を晒したのだろう。

 作者不詳の三番目の歌は男女両方からの解釈がされている。「きせさめや」は語義未詳とされるが、大まかな歌の趣旨としては、先の女性からの誘いの解釈と、“そのように麻の苧を桶いっぱいに紡いだとしても、明日着物として着せることができるわけでもないのだから、(或いは、明日も紡げるのだから)さあ来なさい、寝床に!”といった男性が歌ったとする解釈がある。真剣に麻の繊維を紡いでいる若い女性に働くの止めて、一緒に寝床に行こうとの誘いだ。また仕事が出来る明日が来ないわけではないから、と言って女性が誘ったのか、働いている女性のところに来て男性が誘ったのかは定かでないが、古代人の大らかな精神性をもつ生活のなかで、麻が身近な存在であったことは確かだ。万葉集にはこのように麻を詠んだ歌はまだまだある。

 かつて農家の庭先に生えていた麻が消えたときから日本の国力は低下したと言う意見がある。理解できる見解だ。

 神道の祭祀に必要不可欠な麻がもっと検証されるべきだし、麻から日本人の精神性の根幹を探る研究がされていい。同じような考えを持つひとが増えることを切望する次第…。

小泉太志命大先生

 震災からもう4ヵ月が経った。原発事故で放射能に汚染された空気が拡散したが、収束の目処は聞かされていない。集積された瓦礫の処理、インフラの整備などでこれから被災地の復旧には長い時間が必要だろう。
 このような国難とも言うべき大災害の影響は暫く続く。この状況で宗教に携わる者たちがするべきことは、祈りと被災者の心の癒しだ。不幸にも亡くなられた方たちの慰霊、未だ行方不明で彷徨っている御霊の鎮魂、そして残された人たちへの物心両面の支援だろう。
慰霊のため、仏教・キリスト教・イスラームの他宗教の人たちと一緒に寺院と神社で三度ほど祈りを捧げ、祭詞を奏上した。

 震災では神社や仏寺はじめ、新宗教系教団の支部や教会も数多く消失している。被災地で新宗教系のさまざまな祈りと被災者支援が熱心に行なわれている。伝統宗教より庶民生活に密着した新宗教の活発な活動が窺える。未曾有の大震災で我われは宗教者であることの自覚と、宗教者として真摯に祈ることを改めて思い知らされた。

 だが、平時と謂わず戦時と謂わず、“破邪顕正の天剣を以って”唯々、天皇陛下の“聖寿万歳・玉体安穏”をひと筋に祈り、日本国と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粋無邪の生涯を終えた稀有の神人がいる。伊勢の生き神と崇められ、霊剣で天皇を守護された小泉太志命大(おお)先生である。

 かつて昭和63年に本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。同年4月に、香川県三富市高瀬町朝日山に以前祀られていた龍王神の社が再興され、伊勢朝日山本宮として創建された神社がある。此処に生前の小泉太志命大先生の御霊魂「神武参剣大神」が奉斎された。

 天照坐皇大御神を主祭神に龍王神や御鏡姫命、弘法大師、聖徳大師、そして神武参剣大神を祀る神仏混淆のこの神社を継承する女性が、私共の神職養成の講座を受講していた。偶然のことだが、彼女と同期に太志命先生の薫陶を受けた男性の受講生がいた。

 彼は大阪のホテルに勤務していたが受講を修了して退職し、神職となった。現在では太志命先生の御霊魂を祀る天ノ八衢神社宮司を務めている。講座で初めに会ったときは洗練された受け答えからホテルマンの見本のように思えたが、彼の特技は居合道で、全国大会で四段位の部で優勝した剣の達人でもある。

 昨年の秋、所用で大阪に行った折、彼は不案内な私を自分の車で所定の場所へ連れていってくれた。車中で太志命先生に就いていろいろと聞かせて貰った。

 話しによれば太志命先生は伊勢志摩磯部・伊雑宮の森の前に「神武参剣道場」を構え、半世紀に亘り昭和天皇を霊的に庇護された。天皇に関わろうとする邪霊を剣祓えの秘儀でこれを折伏した。真剣を振るう霊術秘法である。毎日何万回と真剣を振られ、魔性の邪霊を切った時には、空を切っているのに刃こぼれが起きたという。そして昭和天皇が薨去された後、自らの神業を終えて数ヵ月後に帰幽されたとか。大喪の礼には海外から多くの人たちが訪れたが、皇室に邪念が行かぬよう鬼気迫る様相で神剣を振られたそうだ。毎日の御神業は厳しく激しかったようだ。

 大阪から戻って暫くすると彼から太志命先生に就いて書かれた本が2冊送られてきた。

 太志命先生が神界に逝かれて20年以上が経った。先生が社会的にどのような評価をされているのかは判らなかったが、この2冊の本は先生の功績と人柄に付いて書かれている。

 1冊は日本神道の“神ながらの道”のなかで、天上の神界からの神示により皇室を守護した太志命先生の事跡を記した本である。著者は30年近く読売新聞に勤務した記者で、神界の瓊々杵尊から太志命先生に与えられた御神示・神勅を神文で載せている。

 もう1冊は神界に帰られた太志命先生を偲ぶ文集である。編集は元官房長官を務められた藤波孝生氏。冒頭には、祝詞集などでよく眼にしていた神宮の祝詞を書かれていた大崎千畝禰宜の、流麗な祝詞が掲載されていた。昭和46年に内宮神楽殿で奏上された、神武参剣道場20周年記念祭の奉告祝詞である。

 この文集は、太志命先生が昭和天皇直属のブレーンであった西園寺公より陛下の霊的庇護を懇願され、それに従って続けられた50年に亘る御神業の偉業を称えている。

 そして藤波氏や映画製作者の角川春樹氏を始め、先生のひと言で大きく人生を好転させた人たちの、感謝の言葉が数多く綴られている。作家の半村良氏や山田風太郎氏なども先生の許に通われていたようだが、角川春樹氏は、“人間にして、既に神である方は、小泉太志命以外には、私は会ったことがない。”と述べている。俳優の夏八木勲氏は、先生との出会いで、不本意な生き方から、“一瞬にして周囲の景色が鮮やかに一変したように、のびやかで自信に満ちた自分を取り戻すことが出来たことを思い出します。”と記している。

 また「学者はにごりを取り去って、覚者(かくしゃ)にならなければならない」と諭された学者も居る。角川氏と同様に先生を神そのものと崇める宗教者や事業家も居る。霊人・神人と称えられるのは、生きながらその御霊魂を祀られたことからも感悟できる。

 このような無私無欲を貫き、一剣萬生・一刀萬殺の神武参剣の法則で以って諸悪の邪を祓い、草莽の陰からひたすらに日本と皇室の弥栄を祈念し、世の人々に光明を与えた人はほかに見当たらないと思う。

 青森県八戸市ご出身の太志命先生は27歳だった昭和13年当時、立命館大学で教鞭を執られていた。この時、国學院大學の創設や日本大学の創始に尽力し、神宮奉斎会の会長も務めた今泉定助翁に客分の扱いを受けていたと言う。定助翁の門弟には小磯首相や笹川良一氏、児玉誉士夫氏など錚々たる人物が居る。太志命先生がこの定助翁の客分に招かれていたことは、国の行末を左右する一人と目されていたことに他ならない。

 太志命先生は2・26事件に連座して約1ヵ月拘留されたが、昭和天皇は藤波元官房長官より先生の近況を幾度かお聴きになられたそうだ。先生は表舞台ではなく神武参剣道場に籠り、神剣を振るい、ひたすら天皇家と国家の安寧のための神業を尽された。このような神業に就かれて居なければ、或いは国を動かす要人になっていたのかも知れない。

 権力の魔力に取り憑かれ、首相の座にしがみ付く元市民運動家に振り回されている政局は、醜態と混迷の度合いを深めている。

 我われは国の未来を託す指導者の選択を間違いなく誤った。

 混沌とした罹災地の中から日本は再生復活の緒に着いた。いま、世直しのための、心の支柱となる小泉太志命大先生の再臨を、人々は待ち焦がれている。

東日本大震災慰霊祭祭詞 ②

東日本大震災被災地の皆様に 謹んでお見舞い申し上げます。

(祭詞を掲載)

東日本大震災 慰霊祭祭詞

(これ)の處(ところ)を仮(かり)の葬儀(はふり)の場(には)と俄(には)かに整(ととの)へ奉(まつ)り 阿波礼(あはれ)(またた)く間(ま)の酷(むご)き災害(わざわひ)に遭遇(あひ)て身罷(みまか)り給(たま)ひし許々(ここだ)の御霊(みたま)(たち)の御前(みまえ)に 宣(の)り白(まお)さく

(こ)は如何(いか)ならむ疎(うと)び荒(あら)ぶる大禍津日(おほまがつひ)の働(はたら)き有(あ)らめや 天運(てんうん)の循環(めぐり)大きく変動(くる)ひて 世界(よ)に稀(まれ)なる激(はげ)しき地震(なゐ)(ゆ)り起(を)こり 山(やま)は裂(さ)け地(つち)は崩(くづ)れ未曾有(いまだしらぬ)(おそ)ろしき勢力(いきほい)の大津波(おほつなみ)押寄(おしよ)せ襲(をそ)ひ来たりて 群集(むらな)す渦中(うづ)に諸人(もろびと)(ら)(おどろ)き逃(に)げ惑(まど)ふも 為(な)す術(すべ)(あ)らず 阿鼻(のどよぶ)叫喚(こゑ)の眼(まなこ)を覆(おほ)ふ凄(いた)(まし)き事態(あらざま)に到(いた)りて 逃(のが)るる道(みち)(な)く 尊(たふと)き御命(みいのち)(お)とし果(は)つるは悲(かな)しくも憤(いきどほろ)しき極(きは)みにこそあれ 未(いま)だ混乱(みだれ)の続(つづ)く郷土(さとざと)は 交通(ゆきき)通信(たより)も全(また)く跡絶(あとた)へ 瓦礫(がれき)の荒地(あれち)と成(な)りて闇夜(とこやみ)の如(ごと)き状態(さま)なれど 由(ゆ)久利(くり)なくも惨事(わざわひ)に遭(あ)ひて神去(かむさ)りし汝(なが)(みこと)(たち)の御霊(みたま)は 今由後(いまゆのち) 彷徨(さまよ)ひの翳(かげ)浄化(きよ)めて惟神(かむながら)の則(のり)の随(まに)(まに)に 浦安(うらやす)く幽冥(かくりよの)大神(おほかみ)の御許(みもと)に到(いた)り給(たま)ひ神々(かみがみ)の御列(みつら)に進(すす)み鎮(しづま)り坐(ま)して 郷里(ふるさと)を最(いと)(すめ)やけく元(もと)の姿(すがた)に立還(たちかへ)らしめむと 再(たて)(おこ)さむ人々(ひとびと)の念(おもひ)を 御心(みこころ)平穏(おだひ)に諾(うべな)ひ給(たま)ひ 哀しみつつ仕(つか)へ奉(まつ)る状(さま)を看行給(みそなはしたま)へと 謹(つつし)み敬(ゐやま)いも白(まお)   

東日本大震災慰霊祭祭詞 ①

 

 東日本大震災被災地の皆様に 謹んでお見舞い申し上げます。

 東日本の大震災から10日あまりが過ぎた。追い討ちをかけた福島の原発事故で、余震と共に不安な日々が続きそうだ。私共の寺子屋式の講座には、九州や関西からも参加しているので問い合わせが相次いだ。

 神職養成を兼ねた講座の受講生は、年齢も職種もさまざまだ。休日を中心に開講しているが、今回の地震翌日12日と13日は講座の日だった。混乱する交通網の中、北海道、広島、大阪などから受講生が上京した。なかには被災地のいわき市から車を12時間運転して来た受講生や、羽田から5時間歩いて来た者も居る。彼等からは、大学では見られない「学ぶ気迫」を感じる。

 在講生に、理学療法の臨床研究で外国から幾つも賞を受け、国内外で高い評価を得ている医師が居る。スポーツ医学の権威でもあり、大学で教鞭を執る傍ら、秋田の病院の院長も務めている。

 4日前、急遽、講座を休んで震災直後の被災地に行っていたその彼から連絡が来た。訊くと、大船渡市からで、医師の仕事より遺体の処理に追われているようだった。現地はテレビなどで報道されない悲惨な状況だとも言う。

 3メートルを越すヘドロの中にはまだ何十台もの車が沈んでおり、車中の遺体はそのままになっている。数は不明。ヘドロなので作業が行なえない。遺体を収容する体育館には、シートに包まれた男女の区別も侭ならない泥まみれの遺体が三体五体と運び込まれ、許容を超える三百体以上が安置されている。水が不足しているので遺体を洗うことも出来ない。近隣の火葬場は小規模のうえ燃料も無く火葬も出来ない。物や道具が無く何もしてやれない。場所によっては窃盗などで治安も悪くなり逮捕者も出ている。僧侶も居ない…。

 そのような、テレビでの情報があまりにも綺麗ごとに思える話しを聴いた。

 彼は、この侭では亡くなったひと達があまりにも可哀想です。せめて慰霊祭を行なって上げたいと言う。その祭詞をお願いしたいと言うので快諾した。以前彼には、横浜での神葬祭で軽いお役で奉仕して貰ったことがあった。

 夜中まで何時間かかけて祭詞を書き、メールで送った。泥まみれのなかを奮闘しているだろう彼から、翌日の講座の午前中、返信が来た。
過分の誉め言葉を貰った。

「お早うございます。
お忙しい中、本当にありがとうございました。
素晴らしい祭詞です。
読みながら涙が止まりません。泥だらけで、ビニールシートに包まれたご遺体の前で、ちゃんと読めるか自信はありませんが、魂を込めて奈良先生の代読をさせて頂きます。」

 講義中に立ち上がったスタッフからこのメールを見せられ、思わず目頭が熱くなった。

 そして三連休最後の21日の朝、講座で講義を始めようとした矢先に、彼が不意に現れた。いつもと違い衣類も汚れ気味で、少しやつれている。現地から直接来たと言う。そのまま午前中の講義を聴き、昼の弁当食になると一週間振りに食事ができたと云っている。忙しさのあまり立ったままパンをかじる有り様で、碌な食事も摂っていなかったようだ。食後の昼休みに受講生と一緒に車座になり、ひとしきり現地の状況を訊いた。知れされていない情報を幾つも聞かされる。生々しい悲惨な状態に暗澹となった。慰霊祭の祭詞は関係者にコピーして配布するとか。慰霊のために少しでも役に立てば本望だ。

 夕方、都内でまた被災地へ行く打ち合わせをすると云って早退していった。
この大震災のつめ痕は暫く癒えまい。これから我われは何が出来るかを、真剣に考えなければならない。いまは被災地での彼の職務の遂行を、祈るのみだ。   合掌

韓国YMCAフォーラム ②

 神田の韓国YMCAでの講演の要旨は以下のようなもの。

 「朝鮮半島の併合を糾弾する意見もあるが、朝鮮は500年もの間、中国に支配され服属する関係にあった。当時、古い体質の朝鮮王朝はクーデターや内紛を繰返していて、近代化に向けた自冶能力などは殆んど無かった。とても自立してやっていけるような状態ではなかった。併合した日本が持ち込んだシステムをベースに戦後にそれを活用し、日本からの資金供与で韓国が驚異的な成長を遂げ、今日の発展に繋がったと私は理解している。

 私の名前は奈良。お国の言葉では“国、我が国・我が祖国”といった意味があると聞いている。遷都1300年で賑わっているが、奈良の都はあなた達の先祖の力によって造られた。

 当時、敵国に攻められ国が滅んだり戦乱を避けたりして朝鮮半島から渡来した多くの人たちを、日本は受け入れている。

 近代になり日本が朝鮮を併合して、皇民化政策の一環で半島各地に神社を建立し、参拝を強要したことは確かに大きな間違いだった。

 しかし、海外官幣大社の筆頭となる朝鮮神宮建立にあたって、朝鮮総督府がご祭神を天照大神と明治天皇の二柱を奉斎しようとした時、これに当時の神社界は“朝鮮の始祖・檀君も併せて祀れ”と強く主張した。

 氏神信仰を規範とする神社神道にとっては当然の主張だった。だが結局、朝鮮総督府に押し切られたという経緯がある。

 また神社と言えば、埼玉には高麗神社がある。神社のご祭神は高麗若光。

 1300年以上前、若光が高句麗から使節として日本に来ていた時、唐と新羅の連合軍に攻められ国が滅び、帰る国を失ってしまう。日本は若光に土地を与え高麗郡と名付け、それまで高句麗から渡ってきた人たち1800人を集めて一緒に住まわせた。彼らは土地の人たちに農耕や土木技術を教え、養蚕や窯業などの産業を興し、共に暮らしていた。

 やがて惜しまれながら若光が亡くなり、人々はこの土地に高麗王・若光として祀った。子孫が代々若光を氏神として祀り、現在の宮司は59代を数えている。韓国から赴任した駐日大使が参拝に見える神社だ。

 かつての武蔵国には55の白髭神社があり、この白髭神社は高麗神社の分社とも言われている。高麗郡が膨張して高麗人の子孫が散って行き、各地に分社を建立していった。白い髭の若光は、後に髭の長い猿田彦神や竹内宿禰と結びつけられるが、このように日本では渡来された人たちと共存し融和して共に暮らして来ている。

 日本と朝鮮半島とはこの若光の時代よりさらに1000年以上遡る頃から交流がある。日本と朝鮮とは一衣帯水の関係だ。日本と朝鮮半島のこれまでの歴史を見れば、100年は決して長い年月ではない。

 皆さんが不幸だったと思われている併合時代に眼を瞑れとは言わないが、贖罪の意味を込めて戦後の日本が韓国の発展に協力したことにまで眼を瞑って頂きたくない。
併合百年の是非を問う議論をベースに、今後の日本と朝鮮半島との新たな関係を築き、新たな百年の歴史の創造に向けた議論に変えて頂きたいと思う。」

 
 冒頭の、当時の朝鮮には自冶能力など無く、戦後、韓国が日本のシステムと資金供与を活用して成長したというくだりでは、会場が一瞬静かになった。他の講師はほぼ持ち時間を超過して話しをしたが、事前にレジュメを作っておいたおかげで与えられた時間内に終えることができた。

 フォーラムが終わり、控室では、ゲストの在日の講師と日本人の講師の間で日韓問題や南北統一の話しが続いた。名刺を交換した在日の人たちが日本人以上に神道や神社について知識をもっているのは意外だった。

 帰路、同行していたスタッフに「在日の方たちの心を鷲づかみでしたね」と誉め言葉をもらった。

 その後の在日団体の役員とのやり取りは省略するが、いつの間にか、10月のソウル西大門独立公園の「憂国烈士慰霊祭」行きに繋がっていた。

 ひとの縁とはいろいろと拡がっていくものだ。

韓国YMCAフォーラム ①

 前回の憂国烈士慰霊祭の行事に参加することになったのも、思えばちょっとした人の縁というものを感じる。

 何年か前に遡るが、何度か祭事指導に行っていた福井の新興教団の秋季大祭に招かれた。教団の所在地は市内を離れた山の裾野にあるが、式典は日暮れより始まる。

 11月始めの夕刻、少し肌寒さを感じる現地に、横浜からスタッフに運転してもらい車で直行した。受付けを終えて職員に案内されて来賓室に入ろうとすると、入口の方から怒鳴り声が聞こえた。混雑している入口に戻ってみると「俺を朝鮮人だと思ってバカにしているのか!」と、体格のいい中年の男性が興奮気味に声を張り上げている。何処かで一度会ったかな、といった程の記憶の人だ。少し離れたところで顔見知りの新聞社の編集者がうろたえ気味に「教主は?、教主は?」と訊ね回っている。まぁまぁと男性の肩を押さえてなだめようとするが興奮状態は治まらない。

 事情を聞くと、編集者が韓国の新聞の支局を預かる彼を誘い、地方の教団の祭典を見ようと東京からやって来た。彼は在日の人たちに日本語の新聞も発行している。編集者は教主と懇意なので気軽に誘ったようだ。

 事前に教団に知らせていなかったので受付けの名簿に彼の名前は無い。長年の信者で大祭スタッフとして狩り出された純朴な家庭の主婦は、“名簿以外の人は来賓室に入れないように”と厳命されていたらしく入室を拒んだ。編集者が教主を捜している間に何度も朝鮮読みの名前を聞かれ、挙句に拒否されたことで怒りが爆発した。いくらなだめても態度を変えない。ついには大声で帰る!と云い出した。車の走る市街地まで相当の距離があるのに、夕暮れが迫るなか、背中を見せて帰って行った。

 後日、教団の教主から謝罪を頼まれ、編集者と一緒に会って話をした。彼は貿易業を営む事業家でもあり民団の要職にも就いていた。

 これが縁で、在日系の大会などに何度か招かれ、彼の講演を聴く機会ができた。日本を第二の故郷と思い日韓の友好を願うまっとうな熱のこもった講演には、いつも共感させられた。

 そして昨年の9月、神田の韓国YMCAで開催される在日のひと達のフォーラムで20分ほどの講演を依頼された。ほかに5,6名の講師がいる。昨年は日韓併合100年という節目の年。この100年の歴史を超え、次の100年で新たな日韓友好を構築し、更に分断された南北の平和的統一を推進する大会だという。

 当日は朝鮮総連系も含めた在日の人たち数百人が会場を埋めた。

 大会の始めに「日韓併合への道」という東映が制作した映画が上映された。20分足らずだが韓国の視点で捉えた映画で、日本が朝鮮半島を武力で侵略し、高圧的な植民地支配を行なったことを強調している。傍若無人な日本人が朝鮮人を虐げている構図だ。私の前に登壇した元大学学長はこの映画の感想を、「日本は朝鮮半島でずい分酷いことをしたと思いました」、などとコメントしている。その前の講演者はある著名な神社の名誉宮司だが、「私は毎日、神社で世界平和のための祈りをしております」と映画や日本の植民地支配時代の話しには一切触れない。

 またその前の講演者は、総連系の団体の役員だろうか「韓国では古米備蓄に大金を使い、更に古くなれば動物の飼料にしている。どうしてこれを北に送れないのか」といったことを言っている。普段見慣れた講演会やセミナーとは雰囲気が少し違っていた。

 最後から2番目に登壇した私の話したことは、前のひと達とは異なった話しとなった。
 
 (次回へ)

憂国烈士慰霊祭 ②

憂国烈士慰霊祭で当日奏上した祭詞を万葉仮名より変えて記載。

憂国烈士慰霊祭々詞

此の處(ところ)を御霊祀(みたままつり)の斎庭(ゆには)と定め奉(まつ)り 希望(のぞみ)高く 御国(みくに)の礎(いしづえ)と思ふ雄心(をごころ)固く一筋に貫きて 身を捧げ花と散り 玉と砕け給ひし柳寛順(ユ・ガン・スン)を始めて 憂国烈士 二千八百三十五柱の御霊等(みたまたち)を仰ぎ奉り 謹(つつ)しみ敬(ゐやま)ひ 宣(の)り白(まお)さく 
(ひるがえ)りて想へば 亜細亜(アジア)の東(ひむがし)の空に暗雲(くろぐも)(ただよ)ひ 朝鮮半島には煩(わづらは)しき事柄(ことがら)(しき)りに起りて国の行末(ゆくすへ)危機(あや)ふく険阻(けは)しき状勢(さま)の時代(とき)に 民族の千年(ちとせ)萬代(よろづよ) 安けく平穏(をだ)しき時世(ときのよ)を拓(ひら)き築かむと 尊き御生命(みいのち)捧げ 世の偉人(おほひと)と 斎(いつ)き奉られ給ふ汝命(いましみこと)(たち)の 往日(ありしひ)の御活動(みはたらき)と御労苦(いたづき)を偲(しの)び奉り 隻(たぐひ)無き御功績(みいさをし)を讃(たた)え 祀り来し随(まま)に 今年は佮(はし)も 十周年の記念(かたみ)の年と成り 更にも韓日合併百年の年にし在(あ)れば 改めて 汝命等の 芳(かぐは)しき御事蹟(みあと)を 国の譽(ほまれ) 人々の亀鑑(かかみ)と称(たた)へ 尊き御霊(みたま)を慰め奉らむと 汝命等の子孫(うみのこ)の末裔(すゑ)に列(つら)なる人々を始めて 由縁(ゆかり)深き諸人(もろびと) 関係者(かかづらへるもの)(ら)相集ひ 拝(をろが)み奉る状(さま)を 相供(あひとも)に聞食(きこしめ)して 今も往先(ゆくさき)も 御国(みくに)の守護神(まもりがみ)と 天翔(あまかけ)り国翔(くにかけ)り坐(ま)して 平和(をだ)しき世を修理(つく)り固め成し 世界(あめのした)の萬(よろづ)の国々の人々と睦(むつ)びを交はして 弥遠永(いやとほなが)に 立栄え行かむ社会(よ)を 守り導き給へと 日本(ひのもと)の神職(かむづかさ)(つつ)しみ 敬(ゐやま)ひも白(まお)

憂国烈士慰霊祭 ①

201010161149000  昨年の10月末、話題になった新装の羽田を発ち、韓国へ向かった。ソウルの西大門独立公園で行なわれる恒例の「憂国烈士慰霊祭」に、初めての神道儀礼で参加するためだった。韓国が近くなったとは云え、所用が重なりとんぼ帰りの慰霊祭参加となった。

 当日は午前10時から式典開始。晴天だが風が晩秋を思わせるやや冷たい空の下で執り行なわれた。

 憂国烈士とは日韓併合に反対して独立のために闘い、命を落とした二千八百三十五柱の人たち。この憂国烈士慰霊祭に十年前から毎年、九州の真言宗の僧侶が数名参加されている。昨年は十年のひと区切り。さらに日韓併合百周年でもあり、現地の主催者から神道サイドへ参加の要請があった。著名社の名誉宮司始め何名かの名前が挙がっていたようだが、結局、装束と祝詞を携えて私が行くことになった。

 細かい事だが、参加して日本と韓国の“式典の始め方”の違いを体験した。日本では式典の開始前に準備はすべて終えている。だが韓国では式典が始まってもまだ準備が終っておらず、スタッフ等が会場を動き回っている。そのためか式典の冒頭には歌手が曲を歌う式前行事があり、歌手が二曲を歌い終えるころには準備が整っているという具合だ。韓国では歌の間に準備を終えるのが習慣のようだ。

 歌が終ると司会者が開会宣言。国歌斎唱、黙祷、各団体代表による献花、大会の辞と挨拶、追慕の辞と続く。その後に宗教者が登壇して慰霊祭を行なう。

 会場の参加者の中には黒い軍服のような制服姿で、胸には幾つも勲章を付けた在郷軍人と思しき一団がいる。年配で髭を蓄えた人が多い。神社参拝を強制された記憶を持つ年代の人たちだろうか、心なしか最前列に座る私への視線が厳しく感じる。ほかに少数だが在韓の日本人も居る。

 仏教の数名の僧侶による読経のあと神道儀式を行なう。修祓のあと鎮魂の岩笛を吹奏。青空の下で澄んだ音色が尾を引いて拡がった。そしてマイクを通して祭詞を奏上。二礼二拍手一拝の作法。韓国でこのような神道式の儀式が行なわれることは殆んどないのだろうか、辺りはシンとした空気に変わった。儀式が終ると、千数百人が埋めた野外公園の雰囲気が確かに変わっていた。司会者の祭詞の通訳にも会場は張りつめた静寂の侭だった。

 式典が終ると在韓の日本婦人会の方たちがやって来た。“やはり神道の儀式は厳粛で清々しい”、といった感想を戴いた。

 昼食後の控室に来た現地新聞の取材もそこそこに、会場から空港に向かい、慌しく帰国した。有名ホテルのスイートルームに宿泊させて貰ったが、滞在は僅か1日。本当に韓国は近くなった。

 奇妙に思うことが一つ。日本側の担当者に祭典の趣旨を聞き、祭詞の中に最も知られた烈士の安重根とアジアのジャンヌ・ダルクと言われた柳寛順(ユガンスン)の名前を入れる打ち合わせをした。祭詞の口語訳も事前に渡しておいた。だが当日、なぜか安重根の名前を外して欲しいと言う。

 後日聴いたところ、あの施設には安重根が祀られていないとか。抗日の国民的英雄が、なぜ祀られていないのか…。まさか日本への気遣いではあるまい。多分、安重根が北朝鮮出身であることと無関係ではないのだろう。

(安重根については以前“神道つれづれ”で少しだが触れている。)

次回は当日奏上した祝詞を掲載する。

国連決議:「世界諸宗教調和週間」に参加して

 いま、韓国が元気だ。日本に追いつけ追い越せから、世界的な視野に立ち様ざまな分野での活動を始めている。経済成長と政情の安定による国民的自信が背景にあるようだ。

0461_2  昨年の10月16日、ソウルの西大門独立公園で行なわれた第10回「憂国烈士慰霊祭」に日韓併合100年の節目という事で、初めて行なわれる神道儀式での慰霊をするために出向いたが、先月2月6日、今回は“世界平和の祈り”の祝詞を携えて韓国に向かった。羽田から金浦空港まで2時間足らず。首都圏在住者にとって羽田の国際線就航は大歓迎だ。

 昨年の10月20日、ニューヨークでの第65回国連総会で「世界諸宗教調和週間(World Interfaith Harmony Week)」に関する決議案が可決された。“相互理解と宗教間対話は平和文化の重要な要素である”として、毎年2月の第1週を「すべての宗教・信仰・信条間の“世界諸宗教調和週間”」とすると宣言した。

 この週の期間、国連が“諸宗教の調和と善意のメッセージの拡大の支援”を、奨励する。

 それに応えて初めての開催となるソウルでの“調和週間に伴なう国際会議”には、70カ国から宗教者・政府関係者・政治家など200名が参加した。カトリックの大司教、米国プロテスタントや台湾儒教界の代表、アナン前国連事務総長補佐の外交官、ケニア現首相夫人などを始め、各国から元大統領、前首相、現閣僚クラスも多数参加している。日本からも政治家・官僚・国連勤務者など十数名が出席している。期間中に名刺の交換をしたのはアフリカや中欧のひと達が多かった。

 この決議案が提出されるまで、国連では関連する幾つかの議決がされている。‘04年の第59回国連総会では、“文明間の対話と平和の文化を形成する一つの重要な次元”として「宗教間の対話促進」の決議案が採択された。また‘06年の第61回総会では、国連システムの中に「グローバルな宗教・文明・文化間の対話実施のための部署の設置案」が全会一致で採択され、翌‘07年に「国連事務局経済社会局」内にその部署が設置された。

 今回の世界諸宗教調和週間決議案は、ヨルダン政府始め、いま動向が注目されるバーレーンやオマーン、サウジアラビア、トルコ、アゼルバイジャンなど29カ国に依って提出されている。議案提出の同調国にイスラーム圏が多いのは、‘01年の同時多発テロの影響で世界中の非ムスリムに与えたイスラームへの恐怖観の払拭と正しい理解を狙ったものだろう。

 会議の開催に先立ち、神道・キリスト教・イスラーム・仏教・ユダヤ教・シーク教など7宗派の儀礼による“世界平和の祈り”が行なわれた。それぞれに与えられた時間は短時間だったが、最初が神道儀式で、はじめに名前を読み上げられた。会場に長く余韻を引いて鳴り響く岩笛を三度吹奏し、祝詞を奏上して二礼二拍手一拝の作法を行なった。比較的多いアフリカから参加者の大半は、作法を伴う神道の儀式を初めて眼にしたことでかなり関心を持ったようだった。

 イスラームはセルビア共和国が、キリスト教はアンゴラからの宗教者が代表して祈祷を行なった。彼は英語が話せず通訳を兼ねた秘書が同行していた。一緒に祈祷したことで神道に興味を持ったのか、英語の不得手な私と何故か親しくなった。彼はアンゴラ本国で200万人の信徒を束ねているという。何度か通訳を介して自分達の大祭に来るよう誘ってくれた。

 アンゴラ国土は日本の3倍以上だが人口は僅か1900万人に満たない。400年以上もポルトガルの植民地で、住民が奴隷として南米に送られ人口が増えなかったという。国民の半分以上がキリスト教徒。10年前まで内戦が続いていたが、現在はダイアモンドや石油の豊富な地下資源で急速に復興している。

 日本からアンゴラは遠い。大祭には行けないが、せめてポルトガル語に翻訳して貰った文面と、何度か一緒に撮った写真を添えてメールを送る積りでいる。
このように国際会議に参加すると各国の宗教者や政治家や官僚と知り合う機会に恵まれる。そして日本の神道が如何に世界に知られていないかを実感する。

 以前イスラエルでの宗教者会議では、白衣に袴姿を見たロシアの宗教者に「あなたは合気道の先生か?」と言われた。別な会議では私の儀式を見た南アフリカのマンデラ元大統領の娘さんに“東洋の神秘”と言われたが、神道を東洋のローカルで神秘な土着宗教のままにして置くべきではない。日本の神社界は神道教派とも連携して、神道理念を基軸に環境問題や宗教間融和などを国際社会に発信すべきではないだろうか。

 日本の神道は世界平和に貢献できる可能性を持つ宗教であると国際会議に参加するたびに確信する。また会議で神道と少しでも触れた各国の有識者からもそのような期待の声を聞くのである。  (宗教新聞 2月5日(土)号 転載)

 次回、ついでに昨年10月の「憂国烈士慰霊祭」参加で韓国行きになった経緯についてもふれておこう。

チベット問題

 尖閣問題から端を発して、連日続いていた中国の反日デモの報道が下火になH20_0321 っていたが、漁船衝突時のビデオ流出でまた風向きが変わりそうだ。中国政府のデモ黙認は学生や一般民衆の不満を晴らすガス抜きとも伝えられていた。デモの内陸部へ移行は、高度成長の恩恵から取り残された地域が、不満の矛先を政府に向ける可能性があった。だが、結局、これもコントロールされたようだ。

 これに呼応するかのように、チベット族自冶省や州で、チベット族の学生達が教育改革に反発して抗議デモを起こした。政府が全教科中国語での授業を義務付けたことに対し、チベット語の喪失に危機感を持った民族学校の学生が行動を起こしたもの。この問題は緒を引きそうだ。

 7世紀からサンスクリットを起源とする独自の表音文字を使用するチベット語は、現在中国国内のチベット族在住地を始めブータン、ネパール北部、インド・カシミール州などで使われている。チベット人の就職難は中国語を話せないためと語学教育を強化する政府側と、伝統的な民族言語の抹殺と訴える学生の主張との隔たりは、埋まりそうもない。

 しかし、これまでの歴史を見ると、言語の強要などまだ生ぬるいと思えるほどチベット民族への弾圧は酷かったようだ。チベット人が多く住むチベット自冶区などの本当の悲劇は、情報が隠蔽されて我われには伝えられて来ない。チベット人女性に検査と称して不妊手術を行なってしまうといった実情を、チベット薬学を学んでいる北海道の友人から何度か聴かされていた。だが最近までは、辺境の遠い国での出来事と思っていた。

 先月、都内の会場で開催された「チベットの宗教迫害と人権弾圧」というセミナーがあった。講演されたのは以前から知り合いの方たちだが、変わった経歴を持つ僧侶2名と宗教ジャーナリストの3名。上智大から大正大に転じ、真言学を学んで真言宗智山派の住職となり「チベット問題を考える会」代表を務める小林秀英氏、東工大大学院で理工学研究科の博士課程を修了後、米国に留学された善光寺玄証院住職の福島貴和氏、そして宗教を中心に現代社会の諸テーマに取り組む著名なジャーナリストの室生忠氏。

 8月初めに日本の人権問題を検証するEU域内の11カ国から20数人の委員が来日し、憲政記念館での討議に出席した。だがこの講演でチベットの実情を知らされると、先頃の先進国の人権問題などまるで霞んでしまった。
我われは“中国は広い”というイメージを持つ。ここに中国人の本体となる漢族と55の少数民族が住むとされる。(しかしこの数字は中国政府の発表した数で、この中に台湾も含まれている。当然台湾は除外すべきだ)

 講演で知り得たことだが、本来、中国人の領土は全体の37%で、あとはチベット族、ウイグル族、モンゴル族、回族、満州族などの土地を併合して中国領土と称している。

 現在のこの中国領土の4分の1が本来チベット人の領土だそうだ。もしチベットが独立して中国に侵略された土地を回復すれば、世界で約10番目の面積を持つ国となる。

 昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立した。翌年には人民解放軍が東チベットに侵入する。この直後からチベット人による抵抗運動が起きた。昭和31年には中国政府がチベット自冶区準備委員会を設立、統治に向けて始動する。これに反対する更なる抗中運動が起き、世に知られたチベット動乱となった。

 当時、東西の冷戦のなかで、チベット人ゲリラはアメリカのCIAから資金や武器の提供のほか戦闘訓練まで受けていた。人民軍が侵略して10年後、30万人の民衆の蜂起で動乱が頂点に達した昭和34年(1959)、ダライ・ラマは首都ラッサを脱出、チベット臨時政府を樹立してインドに亡命した。約8万人のチベット人がこれに従って亡命した。この民衆蜂起で8万6千人が死んだ。

 その後、ネパールに基地を移して抗中ゲリラ活動が展開されるが、昭和47(1972)年、米中の国交樹立により、CIAはチベット国内やゲリラへの資金や武器の支援を停止してしまう。補給を絶たれ、人民軍の武力鎮圧で多くの人々が処刑された。2年後にはゲリラ組織が解体され武力抵抗は終わった。東西の冷戦構造のさなか、チベットは大国のパワーゲームに弄ばれ、そして見捨てられた。少数民族の悲劇でもある。

 中国の人民解放軍の侵略後、世界の辺境地チベットの内情は、正確に伝えられていない。一説には、人民軍によって当時の700万から800万の人口のうち、約100万から120万の僧侶や住民が殺された記録がある。

 チベット民族は乾燥した高原の環境のなか仏教への信仰を核とし、独自の文化を育んで来た。若干のムスリムやキリスト教徒も住んでいるが、大半は敬虔なチベット仏教徒である。僧院は学校の役目をしており、ある年齢がくると僧院に入る。かつては6千数百の寺院に人口の10%弱、男性の4分1の約百万人近くが出家していた。それが昭和51(1976)年には、99%の人が消され、寺は破壊されて僅か17寺きり残っていなかったという。文化大革命で紅衛兵が文化遺産を破壊していた不幸な時期とも重なった。

 チベットの悲劇はまだ続いている。日本人とチベット人が作った軍旗が国旗になるなど、チベットと日本の絆は強い。チベットとの関わりの深い国は、中国を除けば日本が一番という識者も居る。

 中国のチベット侵略は、漢民族の移住先と地下資源の確保、戦略上の位置などに拠る。そしてチベット弱体化の内部的な要因は、迷信やあきらめ、依頼心などだと言う。

 この侭ではチベットは中国に飲み込まれてしまうだろう。貴重なチベットの文化も徐々に消えて行く。いま、我われは何を為すべきか。そして何をしてやれるのか…。チベットの仏教文化を後世に伝える為に、日本の仏教界や宗教者は手を携えて立ち上がるべきだろう。

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