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神社参拝代行の是非 ②

―「講の成立と代参について」―

日本の習俗として定着していった信仰支援の集団である講などでは、代参に村落の信仰心が籠められていた。送り出す村民と代参者とは霊的に繋がっていた。祈りを託す代参が、共同体の心の拠り所だった。

四国で生を享けた弘法大師が、四十二歳で霊地八十八ヵ所を開いた。そこは大師への信仰から巡礼参拝する遍路となった。

これを代行する業者が居る。生業として成り立っているかは分らないが、既に市民権を得ているようだ。金額も高そうだ。

戦後、道路が整備され、徒歩から車での巡拝が可能となり、次第に信仰性を薄めた観光化された巡礼ともなった。千四百キロの道程を巡拝するのは、確かに肉体的にも物理的にも負担が大きい。時間のかかる巡拝を、途中か或いは最初から身代わりを頼みたくなるのは解らないでもない。信仰が昂じてと云うより、信仰の希薄化が、このような遍路を代行する職業を生んだ。

だが、四国巡礼は弘法大師の追体験を願う形容あるものへの追慕だ。巡礼代行の譬えは悪いが、スターならぬ信仰の追っかけを依頼するようなものだ。代行を頼んだとしても、信仰の行脚の疲労も無く、聖なる土地の空気や風を感じることも無い。大師信仰が昂じて巡礼代行に行き着いたと思いたいが、そこに血の通った真の信仰は無い。それは単なるファッションで自己満足に過ぎない。かつて業病とされたハンセン病の人たちが、崩れかけて変形した顔や手を隠し、偏見と闘いながら遍路を続けた。救いを求める信仰こそが生きている証しだった。

そのような信仰心が代行の依頼者に多少でもあれば、依頼を思い留まる筈だ。

そして、言われている受験合格の代理参拝だが、繰り返しになるけど金銭だけで繋がった赤の他人の代参者に、祈願者が望むような神威を戴けるとは思わない。そこには講や親分に代って為される真摯な祈りが無い。それは単なる気休めの代行だ。

参拝に行けないほど魂の余裕が無いようなら受験後の長い人生が心配、これは“霊的替え玉受験みたいなものではないか”とツイッターに書き込んでいた受講生がいたが、全くその通りだ。交通が不便だった時代ならいざ知らず、鉄道や高速道路が発達したいま、五体が満足で本気で神に祈る気持ちがあるなら、自分が参拝して神前で頭を垂れるべきだ。

或いは、身体の不自由な人や病弱な人が代参を必要とする場合もあるだろう。真剣な祈りと願いを、神に聞き届けて貰うための代参を、身内や親友に頼む場合もあり得る。神仏を問わず、真心を尽くす祈りには敬虔さが伴う。そのような信心を持っていると依頼する方も相手を選ぶだろう。弘法大師信仰から成立した遍路の代行が広告などで容認された観があるのに、神社での受験合格祈願の代理参拝では何が問題になるのか。仏教と神道とでは違いがあるのか…。

仏教は6世紀に教義教典と共に伝来し、国家の奨励もあり瞬く間に全国に拡がった。釈迦の教えは次第に日本的に潤色されていった。教典や理論に忠実で戒律を厳守する自己修養的なチベット仏教や東南アジアの上座部仏教と、日本に根付いた仏教とは明らかに違うところがある。本来、仏教は先祖崇拝など言っていない。お盆や彼岸などは日本古来の習俗を仏教化したものだ。更に、大自然と四季の移ろいの中で過ごして来た我われ祖先の持つ“秘すれど尊い”という眼に見えぬ神に抱く畏敬の念を仏教は取り込んだ。そしてそれは日本の精神風土に合わせて秘仏化していった。

東南アジアやチベットなど他の仏教国では装飾されて鎮座する仏像が多い。それに較べて日本の仏像は露出度が少ない。普段は本尊を厨子に収め、日を決めて参拝者に公開する“開帳”という習慣ともなった。中国では文盲の民衆に仏教劇を見せて布教を計ったが、仏像や伽藍や劇など仏教は視覚に訴えるところがある。各地に建立される寺院に倣って神社も創建されていく。そこには寺院の仏像とは違い、神社に祀られる神の姿は眼に見えない。日本人の心性の基底には、自然のなかの見えない神への畏敬が、縄文時代から培われていた。自然のなかの神奈備や磐座に降臨していた神は、集落近くに創られた神社という空間に鎮まり、人々はそこに詣でるようになる。神社に鎮まった眼に見えない神は、人々の信仰心に支えられ心の拠りどころとなった。

以前、師の先々代宮司が言っていたことを一度コラムに書いたことがある。

「仏教とは仏の教え。神道とは神の道。道を極めるには難しい…」。神道に教義教典は無いが、その観念が答えの方向性を示してくれる。それはいつも云っている『中今』と『惟神』。

中今とは神道の歴史観でもある。悠久の歴史が進展して行く中で、自分が生かされているいま現在が最も価値あるもの。それ故いま現在を力いっぱい充実させて生き、自分の人生を価値あるものにするため一層の努力する、と解釈されている。また、惟神には諸説あるが、大意は、おのずから神の御心・意志を推し量って生きる、ということだ。善悪良否を判断するとき、自分は神の御心に恥じない行動を取っているのか、と自問すればいい。今回の未曾有の大震災で見せた日本人の他人への思い遣りは、先祖から受け継いだ心の底にある惟神の精神が顕われたものだ。

受験シーズンには天満宮系神社に参拝者が増える。天満宮祭神の菅原道真公は政敵の讒言で九州大宰府に左遷され、慷慨の2年を送り没した。その後の異変は道真公の祟りとされ、怨霊を鎮めるために祀られる。時代と共に怨霊は影を潜め、頭の良さを見直されて天神となり受験の神となった。菅公は弘法大師と同じようにその人となりを知ることは出来る。だが神社に祀られて神話など古来の見えない神と同様の神の扱いを受けている。

神道と仏教を可視と不可視とに分けるのは乱暴だ。だが、師の謂う見えぬ神の道に分け入ることは難しいが、無心な祈りはその足許を照らしてくれる。

代参を語ることで祈りに仏教と神道の微妙な差異を知ることが出来るようだ。中今と惟神の精神から、受験の合格祈願の代行などが許される筈も無いことは自明の理だろう。

 

 

神社参拝代行の是非 ①

―「講の成立と代参について」―

 
先週の火曜日、國學院の院友会館で2,30分ほど日本テレビ午後の情報番組・ミヤネ屋の取材を受けた。その収録が昨日放映された。お笑い番組などでの露出はなるべく控えているが、今回の取材の内容は“受験の合格祈願を代行する業者の代理参拝をどう思うか、その行為に賛成か反対か”がテーマ。

 神社に行く時間を勉強に充てた方がいいと云った受験生や、神社も何か方法を考えたら、と言った識者も居たが、結論から云って二者択一なら当然反対だろう。

 依頼者に真摯な祈りが無く、金銭だけで繋がる赤の他人に頼んだ祈りにご利益があるなんて思えない、だから反対!。

 こんなの気休めの代行だ。神さまを名目に商売するな、といつも講座で言っているが、代行業者は違法では無いからと止める気はないようだ。神社側も座視できず困惑している。とは云うものの需要と供給のバランスもあるし、そうとばかり云っていられない現実もある。

  大きな神社には参拝者も多く集まる。かたや教員や会社員との兼業で親から受け継いだ小さな神社を守っている例も多く、数からすれば圧倒的に小規模神社の方が多い。今回は大きな神社の悩みだ。かつて神社を束ねる神社本庁が、神札やお守りを郵送するのは尊厳を損なうと自粛を求める通達を出した。だが、現在は当たり前のように神札やお守りの郵送は行なわれている。役所のような名称だが民間の一宗教法人に過ぎない神社本庁では強制力が働かないのか、傘下の小規模神社で通達を無視したのか、或いは神観の考え方が違うのか、神札やお守りの郵送はなし崩し的に行なわれている。旧官国幣社でいまは別表神社と称する大規模神社から評議員や役員を出している神社本庁の指導部と、傘下の大多数の小規模神社との間には思惑に違いがある。遠方で不便な場所にある神社のご神徳を伝えるために、神札やお守りの郵送は当然認めるべきだ、と云っていた神職が居た。いまどうなっているか分からないが、神札のプリントアウトを考えた神社もあった。今回の代行参拝のことでも、神札やお守りの頒布率が上がればいいと思っている神社もあるかも知れない。

 他人に代って詣でる代参のルーツは、「講」の存在に行き着く。いまの國學院にはたいした先生は居ない、昔は凄い先生が何人も居た、は私の口癖だが、かつて講について詳しい先生が居た。資料を探しながら講について書いておきたい。

 講の起源は奈良時代に遡る。当時、伝来した仏教の興隆を計りながらも、国家が寺院や尼僧に対して管理統制を行なった。国家主導による国家仏教体制を目指したのだ。

 その一方、天台宗はじめ奈良仏教の僧侶たちは、国家鎮護や護国の教典の研究に勤しんだ。このように仏典を研究して同じ信仰をもつ集団を指して、講と言った。やがてその信仰集団に公家たちが加わり、寺院に公家たちが集団で参詣するようになる。

 平安時代になると、仏教的な起源をもつ講は、次第にそれぞれの地域で古来の原始的な自然信仰形態と習合するようになる。それが田の神講、山の神講、地神講、海神講、日待講、月待講などとも変容していく。

 更に、集落の氏神や鎮守を信仰する講とも言うべき氏子集団、地元の観音堂や地蔵堂での観音講や地蔵講、阿弥陀講、念仏講、大師講、そして他郷の名刹などに参拝する講など、その土地に密着したさまざまな講が地域社会から発生し、その土地の風習として定着していった。のちには一つの共同体集落で、幾つもの講が併存する状態ともなる。

 このように地域社会から発生した講とは別に、次第に外部の働きかけで出来た講が各地に現われる。

 日本古来の原始的な山岳信仰と、仏教の密教的信仰とが習合した修験道の影響は大きい。山中に奥深く入り修行を積んで霊験を習得し、この呪力をもとに救済活動を行なう修験者が、村落へ出て講を組織していった。縄文から続く、原日本人の大自然の山や森や磐座に対して根付いている山岳への信仰心が、民衆を霊山の参拝へと向かわせた。

 修験道は平安時代には形を整え、各地に霊山を開いていった。東北の出羽三山、金華山をはじめ、榛名、二荒山、笠間、三峰、大山、戸隠、秋葉、富士、立山、御嶽、白山、熊野、愛宕、大山、三輪、大峰、金峰、石鎚、霧島、英彦山等々、各地で修行者の道場が建立され、そこに登拝を目的とした数多くの講が出現した。

 中世には、霊山信仰を勧誘する修験者と同じように、伊勢の神宮や熊野社が、参詣を勧める下級神職である御師の活動で各地に講を組織化していった。この伊勢講や熊野講に続いて近江の日吉社、大和の春日、京の賀茂、石清水八幡、地方の金刀比羅、稲荷、大宰府などの有力社の講も次々に創られていった。神道的要素を備えながらもそれぞれ特徴のある信仰支援の集団となった。

 更に時代と共に多様化する講は、一方で商人や庶民の頼母子講や無尽講など相互扶助的な組織ともなる。講は宗教や経済活動をする仲間の一呼称となり、近世には同業者の集まりである恵比寿講や大黒講がうまれ、遊びのための集まりが、将棋講、無礼講などとよばれるようになった。

 近世以降はさまざまな形態の講がつくられたが、その土地の慣習として、講に加わると一人前の村人として扱われる例が多い。村落に住む権利と義務をもつ証しともなったのだろう。講は祭礼や集落の寄合いの準備や世話、屋根葺き、葬儀の協力など、共同体の扶助的な機能を持つようになった。

 そのなかで信仰集団の講は、神社などに参拝して祈願するのが目的だ。その講に所属する全員が参加して参拝する総参りの総参講が理想だが、遠隔地や交通の不便な処では、参拝に代参者を立てる代参講なども出来てくる。

 代参とは他人に代って神仏を参拝することだ。もともと習慣として、各地の講が信仰する社寺に、一生に一度は参拝するものとされた。土地により違いはあるが、代参者に選ばれると本人とその家族には、幾つか守る規則があった。代参者となるとその期間は潔斎が求められる。代参者の留守宅の物忌みも厳しい。出発の際には講としての神事の拝礼がある。直会があり終わると代参者は集落の境まで送られる。代参者は講の代表として崇敬する神社に参拝して祈祷し、神楽を修め、神札を受けて帰郷する。講の人たちが出迎え、会食して神札などを配る。

 当然だがこの代参には地縁・血縁に繋がりのある者が選ばれる。そして講の代参者が受けた神威は、講の人たちに平等に行き渡ると信じられていた。

 地域共同体から一定の時期に出向く代参は、年間の行事として決められていることが多い。なかには清水次郎長と森の石松のような上下関係から、不定期に代参に出ることもあった。

 いずれの場合も、送り出す方と代参者はしっかりと信頼の絆で繋がっていた。祈りを託す代参には、村落そのものの信仰心が籠められている。それは心の拠り所として共同体のなかで培われ、習俗として歴史を重ねてきた。
 

        未完・次回へ

 

 

 

麻と大和の心

0061  麻の歴史は古い。最古のものは縄文草創期(13000年~10000年前)の大麻製で、縄として使用されていた。7600年前の早期には麻を繊維化しており、前期(6000年~5000年前)には編み物の材料や、種子を食料としたことも土器の付着物から判明している。麻は古くから繊維や食品としての果実、油の化工などに利用されてきたが、大自然の神から授かった神秘な霊力の籠る神聖な植物であり祭祀にも欠かせないものとなった。縄文から続く麻の神聖さと神秘な霊力は、稲作と共に移住してきた天孫族に継承された。

 天孫族が渡来した以前の縄文時代は故意に隠蔽されて来たとも言われている。いまの神道の起源は稲作伝来のこの弥生時代に在る。稲作の伝播は各地に拡散していく。“日本民族は農耕民族”という概念は神道に大きく作用する。

 神話に誰もが知っている天の岩戸開きの場面がある。スサノオの悪行に耐えかねて天照大神は天岩戸に引き篭もってしまう。世界は真っ暗闇となりさまざまな災いが起る。神々は天照大神の再現のための相談をして儀式を行なう。天の香具山の榊を採り上枝に勾玉を、中枝には八咫鏡を掛け、下方の枝には楮の白い幣と麻の青い幣をさげ、その前で天児屋命が祝詞を奏上する。これが神道祭祀の原点となるが、麻は神に捧げる神聖で尊い幣であることが解る。このとき、天宇豆売命が桶を伏せてそれに乗り、踏み鳴らして舞いトランス状態になる。これが巫女舞のルーツ。この桶は乙女たちが紡いだ麻を入れる用具だった。

 麻は神話の時代から身近なもの。そして天に真っ直ぐに向かい逞しく早く成長していくさまに、当時の人々は尊い生命力を感じ、そこに呪術性をも見たのだろう。

 古代人の精神性・感性を伝える4500余首の『万葉集』には、植物を詠んだ歌が数百首ある。そのうち麻を題材にした歌は多くて約五十首ある。春に麻の種を植え、初秋に刈り取る栽培から紡いで織る全行程は、当時の女性の仕事だった。

○ 庭にたつ 麻布小衾(あさて こぶすま) 今夜(こよひ)だに 夫寄(つまよ)しこせね 麻布小衾(あさて こぶすま)  【巻14-3454】  
〔庭に立てた 刈り取った麻で作った夜具よ せめて今夜だけでも愛しいひとを引き寄せてください!。麻でつくった小さな夜具よ〕

○ をとめらが 積麻(うみを)の 絡垜(たたり) 打麻懸(うちそか)け 積(う)む時無しに 恋ひ渡るかも  【巻12-2990】
〔乙女らが麻糸を紡ぐとき 三本の柱の糸巻き用具で 打って柔らかくした麻を丹精込めて紡ぐように 飽きることなど無く 恋し続けるのよ〕

○ 麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 積(う)まずとも 明日きせさめや いざせ小床(をどこ)に  【巻14-3484】
〔麻の糸を桶いっぱいになるまで紡がなくとも 明日お着せするわけでもないでしょうから さあ 誘ってください 寝床に!〕

 当時の若い女性は大らかに自らの意思を詠み、その想いを麻に託している。
最初の歌は京に赴く旅の途上にある夫を想い、夫が居るときと同じように敷いてある麻の夜具に、離れている二人の媒介を願う女の情念が滲むような呪歌だ。麻の夜具を常に敷いて置くのは夫と共に寝るという願いと、夫の浮気防止のための呪術だ。

 二番目の歌は、何人かの乙女たちが、打って打って柔らかくなった麻を細く裂き、それを繋いで糸にする長時間の労働のなかで、積(う)み出される麻糸にそれぞれ自分の想いを託す。休むことなく倦むことなく、真剣に作業する乙女たちが向き合うのは麻。神に仕える巫女の所作のように辛抱強く麻糸を紡ぎながら、抱いた恋心の実現を願う。いつまでも想いが飽きることなく恋い続けている。神聖な麻だからこそ心を晒したのだろう。

 作者不詳の三番目の歌は男女両方からの解釈がされている。「きせさめや」は語義未詳とされるが、大まかな歌の趣旨としては、先の女性からの誘いの解釈と、“そのように麻の苧を桶いっぱいに紡いだとしても、明日着物として着せることができるわけでもないのだから、(或いは、明日も紡げるのだから)さあ来なさい、寝床に!”といった男性が歌ったとする解釈がある。真剣に麻の繊維を紡いでいる若い女性に働くの止めて、一緒に寝床に行こうとの誘いだ。また仕事が出来る明日が来ないわけではないから、と言って女性が誘ったのか、働いている女性のところに来て男性が誘ったのかは定かでないが、古代人の大らかな精神性をもつ生活のなかで、麻が身近な存在であったことは確かだ。万葉集にはこのように麻を詠んだ歌はまだまだある。

 かつて農家の庭先に生えていた麻が消えたときから日本の国力は低下したと言う意見がある。理解できる見解だ。

 神道の祭祀に必要不可欠な麻がもっと検証されるべきだし、麻から日本人の精神性の根幹を探る研究がされていい。同じような考えを持つひとが増えることを切望する次第…。

小泉太志命大先生

 震災からもう4ヵ月が経った。原発事故で放射能に汚染された空気が拡散したが、収束の目処は聞かされていない。集積された瓦礫の処理、インフラの整備などでこれから被災地の復旧には長い時間が必要だろう。
 このような国難とも言うべき大災害の影響は暫く続く。この状況で宗教に携わる者たちがするべきことは、祈りと被災者の心の癒しだ。不幸にも亡くなられた方たちの慰霊、未だ行方不明で彷徨っている御霊の鎮魂、そして残された人たちへの物心両面の支援だろう。
慰霊のため、仏教・キリスト教・イスラームの他宗教の人たちと一緒に寺院と神社で三度ほど祈りを捧げ、祭詞を奏上した。

 震災では神社や仏寺はじめ、新宗教系教団の支部や教会も数多く消失している。被災地で新宗教系のさまざまな祈りと被災者支援が熱心に行なわれている。伝統宗教より庶民生活に密着した新宗教の活発な活動が窺える。未曾有の大震災で我われは宗教者であることの自覚と、宗教者として真摯に祈ることを改めて思い知らされた。

 だが、平時と謂わず戦時と謂わず、“破邪顕正の天剣を以って”唯々、天皇陛下の“聖寿万歳・玉体安穏”をひと筋に祈り、日本国と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粋無邪の生涯を終えた稀有の神人がいる。伊勢の生き神と崇められ、霊剣で天皇を守護された小泉太志命大(おお)先生である。

 かつて昭和63年に本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。同年4月に、香川県三富市高瀬町朝日山に以前祀られていた龍王神の社が再興され、伊勢朝日山本宮として創建された神社がある。此処に生前の小泉太志命大先生の御霊魂「神武参剣大神」が奉斎された。

 天照坐皇大御神を主祭神に龍王神や御鏡姫命、弘法大師、聖徳大師、そして神武参剣大神を祀る神仏混淆のこの神社を継承する女性が、私共の神職養成の講座を受講していた。偶然のことだが、彼女と同期に太志命先生の薫陶を受けた男性の受講生がいた。

 彼は大阪のホテルに勤務していたが受講を修了して退職し、神職となった。現在では太志命先生の御霊魂を祀る天ノ八衢神社宮司を務めている。講座で初めに会ったときは洗練された受け答えからホテルマンの見本のように思えたが、彼の特技は居合道で、全国大会で四段位の部で優勝した剣の達人でもある。

 昨年の秋、所用で大阪に行った折、彼は不案内な私を自分の車で所定の場所へ連れていってくれた。車中で太志命先生に就いていろいろと聞かせて貰った。

 話しによれば太志命先生は伊勢志摩磯部・伊雑宮の森の前に「神武参剣道場」を構え、半世紀に亘り昭和天皇を霊的に庇護された。天皇に関わろうとする邪霊を剣祓えの秘儀でこれを折伏した。真剣を振るう霊術秘法である。毎日何万回と真剣を振られ、魔性の邪霊を切った時には、空を切っているのに刃こぼれが起きたという。そして昭和天皇が薨去された後、自らの神業を終えて数ヵ月後に帰幽されたとか。大喪の礼には海外から多くの人たちが訪れたが、皇室に邪念が行かぬよう鬼気迫る様相で神剣を振られたそうだ。毎日の御神業は厳しく激しかったようだ。

 大阪から戻って暫くすると彼から太志命先生に就いて書かれた本が2冊送られてきた。

 太志命先生が神界に逝かれて20年以上が経った。先生が社会的にどのような評価をされているのかは判らなかったが、この2冊の本は先生の功績と人柄に付いて書かれている。

 1冊は日本神道の“神ながらの道”のなかで、天上の神界からの神示により皇室を守護した太志命先生の事跡を記した本である。著者は30年近く読売新聞に勤務した記者で、神界の瓊々杵尊から太志命先生に与えられた御神示・神勅を神文で載せている。

 もう1冊は神界に帰られた太志命先生を偲ぶ文集である。編集は元官房長官を務められた藤波孝生氏。冒頭には、祝詞集などでよく眼にしていた神宮の祝詞を書かれていた大崎千畝禰宜の、流麗な祝詞が掲載されていた。昭和46年に内宮神楽殿で奏上された、神武参剣道場20周年記念祭の奉告祝詞である。

 この文集は、太志命先生が昭和天皇直属のブレーンであった西園寺公より陛下の霊的庇護を懇願され、それに従って続けられた50年に亘る御神業の偉業を称えている。

 そして藤波氏や映画製作者の角川春樹氏を始め、先生のひと言で大きく人生を好転させた人たちの、感謝の言葉が数多く綴られている。作家の半村良氏や山田風太郎氏なども先生の許に通われていたようだが、角川春樹氏は、“人間にして、既に神である方は、小泉太志命以外には、私は会ったことがない。”と述べている。俳優の夏八木勲氏は、先生との出会いで、不本意な生き方から、“一瞬にして周囲の景色が鮮やかに一変したように、のびやかで自信に満ちた自分を取り戻すことが出来たことを思い出します。”と記している。

 また「学者はにごりを取り去って、覚者(かくしゃ)にならなければならない」と諭された学者も居る。角川氏と同様に先生を神そのものと崇める宗教者や事業家も居る。霊人・神人と称えられるのは、生きながらその御霊魂を祀られたことからも感悟できる。

 このような無私無欲を貫き、一剣萬生・一刀萬殺の神武参剣の法則で以って諸悪の邪を祓い、草莽の陰からひたすらに日本と皇室の弥栄を祈念し、世の人々に光明を与えた人はほかに見当たらないと思う。

 青森県八戸市ご出身の太志命先生は27歳だった昭和13年当時、立命館大学で教鞭を執られていた。この時、国學院大學の創設や日本大学の創始に尽力し、神宮奉斎会の会長も務めた今泉定助翁に客分の扱いを受けていたと言う。定助翁の門弟には小磯首相や笹川良一氏、児玉誉士夫氏など錚々たる人物が居る。太志命先生がこの定助翁の客分に招かれていたことは、国の行末を左右する一人と目されていたことに他ならない。

 太志命先生は2・26事件に連座して約1ヵ月拘留されたが、昭和天皇は藤波元官房長官より先生の近況を幾度かお聴きになられたそうだ。先生は表舞台ではなく神武参剣道場に籠り、神剣を振るい、ひたすら天皇家と国家の安寧のための神業を尽された。このような神業に就かれて居なければ、或いは国を動かす要人になっていたのかも知れない。

 権力の魔力に取り憑かれ、首相の座にしがみ付く元市民運動家に振り回されている政局は、醜態と混迷の度合いを深めている。

 我われは国の未来を託す指導者の選択を間違いなく誤った。

 混沌とした罹災地の中から日本は再生復活の緒に着いた。いま、世直しのための、心の支柱となる小泉太志命大先生の再臨を、人々は待ち焦がれている。

東日本大震災慰霊祭祭詞 ②

東日本大震災被災地の皆様に 謹んでお見舞い申し上げます。

(祭詞を掲載)

東日本大震災 慰霊祭祭詞

(これ)の處(ところ)を仮(かり)の葬儀(はふり)の場(には)と俄(には)かに整(ととの)へ奉(まつ)り 阿波礼(あはれ)(またた)く間(ま)の酷(むご)き災害(わざわひ)に遭遇(あひ)て身罷(みまか)り給(たま)ひし許々(ここだ)の御霊(みたま)(たち)の御前(みまえ)に 宣(の)り白(まお)さく

(こ)は如何(いか)ならむ疎(うと)び荒(あら)ぶる大禍津日(おほまがつひ)の働(はたら)き有(あ)らめや 天運(てんうん)の循環(めぐり)大きく変動(くる)ひて 世界(よ)に稀(まれ)なる激(はげ)しき地震(なゐ)(ゆ)り起(を)こり 山(やま)は裂(さ)け地(つち)は崩(くづ)れ未曾有(いまだしらぬ)(おそ)ろしき勢力(いきほい)の大津波(おほつなみ)押寄(おしよ)せ襲(をそ)ひ来たりて 群集(むらな)す渦中(うづ)に諸人(もろびと)(ら)(おどろ)き逃(に)げ惑(まど)ふも 為(な)す術(すべ)(あ)らず 阿鼻(のどよぶ)叫喚(こゑ)の眼(まなこ)を覆(おほ)ふ凄(いた)(まし)き事態(あらざま)に到(いた)りて 逃(のが)るる道(みち)(な)く 尊(たふと)き御命(みいのち)(お)とし果(は)つるは悲(かな)しくも憤(いきどほろ)しき極(きは)みにこそあれ 未(いま)だ混乱(みだれ)の続(つづ)く郷土(さとざと)は 交通(ゆきき)通信(たより)も全(また)く跡絶(あとた)へ 瓦礫(がれき)の荒地(あれち)と成(な)りて闇夜(とこやみ)の如(ごと)き状態(さま)なれど 由(ゆ)久利(くり)なくも惨事(わざわひ)に遭(あ)ひて神去(かむさ)りし汝(なが)(みこと)(たち)の御霊(みたま)は 今由後(いまゆのち) 彷徨(さまよ)ひの翳(かげ)浄化(きよ)めて惟神(かむながら)の則(のり)の随(まに)(まに)に 浦安(うらやす)く幽冥(かくりよの)大神(おほかみ)の御許(みもと)に到(いた)り給(たま)ひ神々(かみがみ)の御列(みつら)に進(すす)み鎮(しづま)り坐(ま)して 郷里(ふるさと)を最(いと)(すめ)やけく元(もと)の姿(すがた)に立還(たちかへ)らしめむと 再(たて)(おこ)さむ人々(ひとびと)の念(おもひ)を 御心(みこころ)平穏(おだひ)に諾(うべな)ひ給(たま)ひ 哀しみつつ仕(つか)へ奉(まつ)る状(さま)を看行給(みそなはしたま)へと 謹(つつし)み敬(ゐやま)いも白(まお)   

東日本大震災慰霊祭祭詞 ①

 

 東日本大震災被災地の皆様に 謹んでお見舞い申し上げます。

 東日本の大震災から10日あまりが過ぎた。追い討ちをかけた福島の原発事故で、余震と共に不安な日々が続きそうだ。私共の寺子屋式の講座には、九州や関西からも参加しているので問い合わせが相次いだ。

 神職養成を兼ねた講座の受講生は、年齢も職種もさまざまだ。休日を中心に開講しているが、今回の地震翌日12日と13日は講座の日だった。混乱する交通網の中、北海道、広島、大阪などから受講生が上京した。なかには被災地のいわき市から車を12時間運転して来た受講生や、羽田から5時間歩いて来た者も居る。彼等からは、大学では見られない「学ぶ気迫」を感じる。

 在講生に、理学療法の臨床研究で外国から幾つも賞を受け、国内外で高い評価を得ている医師が居る。スポーツ医学の権威でもあり、大学で教鞭を執る傍ら、秋田の病院の院長も務めている。

 4日前、急遽、講座を休んで震災直後の被災地に行っていたその彼から連絡が来た。訊くと、大船渡市からで、医師の仕事より遺体の処理に追われているようだった。現地はテレビなどで報道されない悲惨な状況だとも言う。

 3メートルを越すヘドロの中にはまだ何十台もの車が沈んでおり、車中の遺体はそのままになっている。数は不明。ヘドロなので作業が行なえない。遺体を収容する体育館には、シートに包まれた男女の区別も侭ならない泥まみれの遺体が三体五体と運び込まれ、許容を超える三百体以上が安置されている。水が不足しているので遺体を洗うことも出来ない。近隣の火葬場は小規模のうえ燃料も無く火葬も出来ない。物や道具が無く何もしてやれない。場所によっては窃盗などで治安も悪くなり逮捕者も出ている。僧侶も居ない…。

 そのような、テレビでの情報があまりにも綺麗ごとに思える話しを聴いた。

 彼は、この侭では亡くなったひと達があまりにも可哀想です。せめて慰霊祭を行なって上げたいと言う。その祭詞をお願いしたいと言うので快諾した。以前彼には、横浜での神葬祭で軽いお役で奉仕して貰ったことがあった。

 夜中まで何時間かかけて祭詞を書き、メールで送った。泥まみれのなかを奮闘しているだろう彼から、翌日の講座の午前中、返信が来た。
過分の誉め言葉を貰った。

「お早うございます。
お忙しい中、本当にありがとうございました。
素晴らしい祭詞です。
読みながら涙が止まりません。泥だらけで、ビニールシートに包まれたご遺体の前で、ちゃんと読めるか自信はありませんが、魂を込めて奈良先生の代読をさせて頂きます。」

 講義中に立ち上がったスタッフからこのメールを見せられ、思わず目頭が熱くなった。

 そして三連休最後の21日の朝、講座で講義を始めようとした矢先に、彼が不意に現れた。いつもと違い衣類も汚れ気味で、少しやつれている。現地から直接来たと言う。そのまま午前中の講義を聴き、昼の弁当食になると一週間振りに食事ができたと云っている。忙しさのあまり立ったままパンをかじる有り様で、碌な食事も摂っていなかったようだ。食後の昼休みに受講生と一緒に車座になり、ひとしきり現地の状況を訊いた。知れされていない情報を幾つも聞かされる。生々しい悲惨な状態に暗澹となった。慰霊祭の祭詞は関係者にコピーして配布するとか。慰霊のために少しでも役に立てば本望だ。

 夕方、都内でまた被災地へ行く打ち合わせをすると云って早退していった。
この大震災のつめ痕は暫く癒えまい。これから我われは何が出来るかを、真剣に考えなければならない。いまは被災地での彼の職務の遂行を、祈るのみだ。   合掌

韓国YMCAフォーラム ②

 神田の韓国YMCAでの講演の要旨は以下のようなもの。

 「朝鮮半島の併合を糾弾する意見もあるが、朝鮮は500年もの間、中国に支配され服属する関係にあった。当時、古い体質の朝鮮王朝はクーデターや内紛を繰返していて、近代化に向けた自冶能力などは殆んど無かった。とても自立してやっていけるような状態ではなかった。併合した日本が持ち込んだシステムをベースに戦後にそれを活用し、日本からの資金供与で韓国が驚異的な成長を遂げ、今日の発展に繋がったと私は理解している。

 私の名前は奈良。お国の言葉では“国、我が国・我が祖国”といった意味があると聞いている。遷都1300年で賑わっているが、奈良の都はあなた達の先祖の力によって造られた。

 当時、敵国に攻められ国が滅んだり戦乱を避けたりして朝鮮半島から渡来した多くの人たちを、日本は受け入れている。

 近代になり日本が朝鮮を併合して、皇民化政策の一環で半島各地に神社を建立し、参拝を強要したことは確かに大きな間違いだった。

 しかし、海外官幣大社の筆頭となる朝鮮神宮建立にあたって、朝鮮総督府がご祭神を天照大神と明治天皇の二柱を奉斎しようとした時、これに当時の神社界は“朝鮮の始祖・檀君も併せて祀れ”と強く主張した。

 氏神信仰を規範とする神社神道にとっては当然の主張だった。だが結局、朝鮮総督府に押し切られたという経緯がある。

 また神社と言えば、埼玉には高麗神社がある。神社のご祭神は高麗若光。

 1300年以上前、若光が高句麗から使節として日本に来ていた時、唐と新羅の連合軍に攻められ国が滅び、帰る国を失ってしまう。日本は若光に土地を与え高麗郡と名付け、それまで高句麗から渡ってきた人たち1800人を集めて一緒に住まわせた。彼らは土地の人たちに農耕や土木技術を教え、養蚕や窯業などの産業を興し、共に暮らしていた。

 やがて惜しまれながら若光が亡くなり、人々はこの土地に高麗王・若光として祀った。子孫が代々若光を氏神として祀り、現在の宮司は59代を数えている。韓国から赴任した駐日大使が参拝に見える神社だ。

 かつての武蔵国には55の白髭神社があり、この白髭神社は高麗神社の分社とも言われている。高麗郡が膨張して高麗人の子孫が散って行き、各地に分社を建立していった。白い髭の若光は、後に髭の長い猿田彦神や竹内宿禰と結びつけられるが、このように日本では渡来された人たちと共存し融和して共に暮らして来ている。

 日本と朝鮮半島とはこの若光の時代よりさらに1000年以上遡る頃から交流がある。日本と朝鮮とは一衣帯水の関係だ。日本と朝鮮半島のこれまでの歴史を見れば、100年は決して長い年月ではない。

 皆さんが不幸だったと思われている併合時代に眼を瞑れとは言わないが、贖罪の意味を込めて戦後の日本が韓国の発展に協力したことにまで眼を瞑って頂きたくない。
併合百年の是非を問う議論をベースに、今後の日本と朝鮮半島との新たな関係を築き、新たな百年の歴史の創造に向けた議論に変えて頂きたいと思う。」

 
 冒頭の、当時の朝鮮には自冶能力など無く、戦後、韓国が日本のシステムと資金供与を活用して成長したというくだりでは、会場が一瞬静かになった。他の講師はほぼ持ち時間を超過して話しをしたが、事前にレジュメを作っておいたおかげで与えられた時間内に終えることができた。

 フォーラムが終わり、控室では、ゲストの在日の講師と日本人の講師の間で日韓問題や南北統一の話しが続いた。名刺を交換した在日の人たちが日本人以上に神道や神社について知識をもっているのは意外だった。

 帰路、同行していたスタッフに「在日の方たちの心を鷲づかみでしたね」と誉め言葉をもらった。

 その後の在日団体の役員とのやり取りは省略するが、いつの間にか、10月のソウル西大門独立公園の「憂国烈士慰霊祭」行きに繋がっていた。

 ひとの縁とはいろいろと拡がっていくものだ。

韓国YMCAフォーラム ①

 前回の憂国烈士慰霊祭の行事に参加することになったのも、思えばちょっとした人の縁というものを感じる。

 何年か前に遡るが、何度か祭事指導に行っていた福井の新興教団の秋季大祭に招かれた。教団の所在地は市内を離れた山の裾野にあるが、式典は日暮れより始まる。

 11月始めの夕刻、少し肌寒さを感じる現地に、横浜からスタッフに運転してもらい車で直行した。受付けを終えて職員に案内されて来賓室に入ろうとすると、入口の方から怒鳴り声が聞こえた。混雑している入口に戻ってみると「俺を朝鮮人だと思ってバカにしているのか!」と、体格のいい中年の男性が興奮気味に声を張り上げている。何処かで一度会ったかな、といった程の記憶の人だ。少し離れたところで顔見知りの新聞社の編集者がうろたえ気味に「教主は?、教主は?」と訊ね回っている。まぁまぁと男性の肩を押さえてなだめようとするが興奮状態は治まらない。

 事情を聞くと、編集者が韓国の新聞の支局を預かる彼を誘い、地方の教団の祭典を見ようと東京からやって来た。彼は在日の人たちに日本語の新聞も発行している。編集者は教主と懇意なので気軽に誘ったようだ。

 事前に教団に知らせていなかったので受付けの名簿に彼の名前は無い。長年の信者で大祭スタッフとして狩り出された純朴な家庭の主婦は、“名簿以外の人は来賓室に入れないように”と厳命されていたらしく入室を拒んだ。編集者が教主を捜している間に何度も朝鮮読みの名前を聞かれ、挙句に拒否されたことで怒りが爆発した。いくらなだめても態度を変えない。ついには大声で帰る!と云い出した。車の走る市街地まで相当の距離があるのに、夕暮れが迫るなか、背中を見せて帰って行った。

 後日、教団の教主から謝罪を頼まれ、編集者と一緒に会って話をした。彼は貿易業を営む事業家でもあり民団の要職にも就いていた。

 これが縁で、在日系の大会などに何度か招かれ、彼の講演を聴く機会ができた。日本を第二の故郷と思い日韓の友好を願うまっとうな熱のこもった講演には、いつも共感させられた。

 そして昨年の9月、神田の韓国YMCAで開催される在日のひと達のフォーラムで20分ほどの講演を依頼された。ほかに5,6名の講師がいる。昨年は日韓併合100年という節目の年。この100年の歴史を超え、次の100年で新たな日韓友好を構築し、更に分断された南北の平和的統一を推進する大会だという。

 当日は朝鮮総連系も含めた在日の人たち数百人が会場を埋めた。

 大会の始めに「日韓併合への道」という東映が制作した映画が上映された。20分足らずだが韓国の視点で捉えた映画で、日本が朝鮮半島を武力で侵略し、高圧的な植民地支配を行なったことを強調している。傍若無人な日本人が朝鮮人を虐げている構図だ。私の前に登壇した元大学学長はこの映画の感想を、「日本は朝鮮半島でずい分酷いことをしたと思いました」、などとコメントしている。その前の講演者はある著名な神社の名誉宮司だが、「私は毎日、神社で世界平和のための祈りをしております」と映画や日本の植民地支配時代の話しには一切触れない。

 またその前の講演者は、総連系の団体の役員だろうか「韓国では古米備蓄に大金を使い、更に古くなれば動物の飼料にしている。どうしてこれを北に送れないのか」といったことを言っている。普段見慣れた講演会やセミナーとは雰囲気が少し違っていた。

 最後から2番目に登壇した私の話したことは、前のひと達とは異なった話しとなった。
 
 (次回へ)

憂国烈士慰霊祭 ②

憂国烈士慰霊祭で当日奏上した祭詞を万葉仮名より変えて記載。

憂国烈士慰霊祭々詞

此の處(ところ)を御霊祀(みたままつり)の斎庭(ゆには)と定め奉(まつ)り 希望(のぞみ)高く 御国(みくに)の礎(いしづえ)と思ふ雄心(をごころ)固く一筋に貫きて 身を捧げ花と散り 玉と砕け給ひし柳寛順(ユ・ガン・スン)を始めて 憂国烈士 二千八百三十五柱の御霊等(みたまたち)を仰ぎ奉り 謹(つつ)しみ敬(ゐやま)ひ 宣(の)り白(まお)さく 
(ひるがえ)りて想へば 亜細亜(アジア)の東(ひむがし)の空に暗雲(くろぐも)(ただよ)ひ 朝鮮半島には煩(わづらは)しき事柄(ことがら)(しき)りに起りて国の行末(ゆくすへ)危機(あや)ふく険阻(けは)しき状勢(さま)の時代(とき)に 民族の千年(ちとせ)萬代(よろづよ) 安けく平穏(をだ)しき時世(ときのよ)を拓(ひら)き築かむと 尊き御生命(みいのち)捧げ 世の偉人(おほひと)と 斎(いつ)き奉られ給ふ汝命(いましみこと)(たち)の 往日(ありしひ)の御活動(みはたらき)と御労苦(いたづき)を偲(しの)び奉り 隻(たぐひ)無き御功績(みいさをし)を讃(たた)え 祀り来し随(まま)に 今年は佮(はし)も 十周年の記念(かたみ)の年と成り 更にも韓日合併百年の年にし在(あ)れば 改めて 汝命等の 芳(かぐは)しき御事蹟(みあと)を 国の譽(ほまれ) 人々の亀鑑(かかみ)と称(たた)へ 尊き御霊(みたま)を慰め奉らむと 汝命等の子孫(うみのこ)の末裔(すゑ)に列(つら)なる人々を始めて 由縁(ゆかり)深き諸人(もろびと) 関係者(かかづらへるもの)(ら)相集ひ 拝(をろが)み奉る状(さま)を 相供(あひとも)に聞食(きこしめ)して 今も往先(ゆくさき)も 御国(みくに)の守護神(まもりがみ)と 天翔(あまかけ)り国翔(くにかけ)り坐(ま)して 平和(をだ)しき世を修理(つく)り固め成し 世界(あめのした)の萬(よろづ)の国々の人々と睦(むつ)びを交はして 弥遠永(いやとほなが)に 立栄え行かむ社会(よ)を 守り導き給へと 日本(ひのもと)の神職(かむづかさ)(つつ)しみ 敬(ゐやま)ひも白(まお)

憂国烈士慰霊祭 ①

201010161149000  昨年の10月末、話題になった新装の羽田を発ち、韓国へ向かった。ソウルの西大門独立公園で行なわれる恒例の「憂国烈士慰霊祭」に、初めての神道儀礼で参加するためだった。韓国が近くなったとは云え、所用が重なりとんぼ帰りの慰霊祭参加となった。

 当日は午前10時から式典開始。晴天だが風が晩秋を思わせるやや冷たい空の下で執り行なわれた。

 憂国烈士とは日韓併合に反対して独立のために闘い、命を落とした二千八百三十五柱の人たち。この憂国烈士慰霊祭に十年前から毎年、九州の真言宗の僧侶が数名参加されている。昨年は十年のひと区切り。さらに日韓併合百周年でもあり、現地の主催者から神道サイドへ参加の要請があった。著名社の名誉宮司始め何名かの名前が挙がっていたようだが、結局、装束と祝詞を携えて私が行くことになった。

 細かい事だが、参加して日本と韓国の“式典の始め方”の違いを体験した。日本では式典の開始前に準備はすべて終えている。だが韓国では式典が始まってもまだ準備が終っておらず、スタッフ等が会場を動き回っている。そのためか式典の冒頭には歌手が曲を歌う式前行事があり、歌手が二曲を歌い終えるころには準備が整っているという具合だ。韓国では歌の間に準備を終えるのが習慣のようだ。

 歌が終ると司会者が開会宣言。国歌斎唱、黙祷、各団体代表による献花、大会の辞と挨拶、追慕の辞と続く。その後に宗教者が登壇して慰霊祭を行なう。

 会場の参加者の中には黒い軍服のような制服姿で、胸には幾つも勲章を付けた在郷軍人と思しき一団がいる。年配で髭を蓄えた人が多い。神社参拝を強制された記憶を持つ年代の人たちだろうか、心なしか最前列に座る私への視線が厳しく感じる。ほかに少数だが在韓の日本人も居る。

 仏教の数名の僧侶による読経のあと神道儀式を行なう。修祓のあと鎮魂の岩笛を吹奏。青空の下で澄んだ音色が尾を引いて拡がった。そしてマイクを通して祭詞を奏上。二礼二拍手一拝の作法。韓国でこのような神道式の儀式が行なわれることは殆んどないのだろうか、辺りはシンとした空気に変わった。儀式が終ると、千数百人が埋めた野外公園の雰囲気が確かに変わっていた。司会者の祭詞の通訳にも会場は張りつめた静寂の侭だった。

 式典が終ると在韓の日本婦人会の方たちがやって来た。“やはり神道の儀式は厳粛で清々しい”、といった感想を戴いた。

 昼食後の控室に来た現地新聞の取材もそこそこに、会場から空港に向かい、慌しく帰国した。有名ホテルのスイートルームに宿泊させて貰ったが、滞在は僅か1日。本当に韓国は近くなった。

 奇妙に思うことが一つ。日本側の担当者に祭典の趣旨を聞き、祭詞の中に最も知られた烈士の安重根とアジアのジャンヌ・ダルクと言われた柳寛順(ユガンスン)の名前を入れる打ち合わせをした。祭詞の口語訳も事前に渡しておいた。だが当日、なぜか安重根の名前を外して欲しいと言う。

 後日聴いたところ、あの施設には安重根が祀られていないとか。抗日の国民的英雄が、なぜ祀られていないのか…。まさか日本への気遣いではあるまい。多分、安重根が北朝鮮出身であることと無関係ではないのだろう。

(安重根については以前“神道つれづれ”で少しだが触れている。)

次回は当日奏上した祝詞を掲載する。

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