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2011年7月

小泉太志命大先生

 震災からもう4ヵ月が経った。原発事故で放射能に汚染された空気が拡散したが、収束の目処は聞かされていない。集積された瓦礫の処理、インフラの整備などでこれから被災地の復旧には長い時間が必要だろう。
 このような国難とも言うべき大災害の影響は暫く続く。この状況で宗教に携わる者たちがするべきことは、祈りと被災者の心の癒しだ。不幸にも亡くなられた方たちの慰霊、未だ行方不明で彷徨っている御霊の鎮魂、そして残された人たちへの物心両面の支援だろう。
慰霊のため、仏教・キリスト教・イスラームの他宗教の人たちと一緒に寺院と神社で三度ほど祈りを捧げ、祭詞を奏上した。

 震災では神社や仏寺はじめ、新宗教系教団の支部や教会も数多く消失している。被災地で新宗教系のさまざまな祈りと被災者支援が熱心に行なわれている。伝統宗教より庶民生活に密着した新宗教の活発な活動が窺える。未曾有の大震災で我われは宗教者であることの自覚と、宗教者として真摯に祈ることを改めて思い知らされた。

 だが、平時と謂わず戦時と謂わず、“破邪顕正の天剣を以って”唯々、天皇陛下の“聖寿万歳・玉体安穏”をひと筋に祈り、日本国と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粋無邪の生涯を終えた稀有の神人がいる。伊勢の生き神と崇められ、霊剣で天皇を守護された小泉太志命大(おお)先生である。

 かつて昭和63年に本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。同年4月に、香川県三富市高瀬町朝日山に以前祀られていた龍王神の社が再興され、伊勢朝日山本宮として創建された神社がある。此処に生前の小泉太志命大先生の御霊魂「神武参剣大神」が奉斎された。

 天照坐皇大御神を主祭神に龍王神や御鏡姫命、弘法大師、聖徳大師、そして神武参剣大神を祀る神仏混淆のこの神社を継承する女性が、私共の神職養成の講座を受講していた。偶然のことだが、彼女と同期に太志命先生の薫陶を受けた男性の受講生がいた。

 彼は大阪のホテルに勤務していたが受講を修了して退職し、神職となった。現在では太志命先生の御霊魂を祀る天ノ八衢神社宮司を務めている。講座で初めに会ったときは洗練された受け答えからホテルマンの見本のように思えたが、彼の特技は居合道で、全国大会で四段位の部で優勝した剣の達人でもある。

 昨年の秋、所用で大阪に行った折、彼は不案内な私を自分の車で所定の場所へ連れていってくれた。車中で太志命先生に就いていろいろと聞かせて貰った。

 話しによれば太志命先生は伊勢志摩磯部・伊雑宮の森の前に「神武参剣道場」を構え、半世紀に亘り昭和天皇を霊的に庇護された。天皇に関わろうとする邪霊を剣祓えの秘儀でこれを折伏した。真剣を振るう霊術秘法である。毎日何万回と真剣を振られ、魔性の邪霊を切った時には、空を切っているのに刃こぼれが起きたという。そして昭和天皇が薨去された後、自らの神業を終えて数ヵ月後に帰幽されたとか。大喪の礼には海外から多くの人たちが訪れたが、皇室に邪念が行かぬよう鬼気迫る様相で神剣を振られたそうだ。毎日の御神業は厳しく激しかったようだ。

 大阪から戻って暫くすると彼から太志命先生に就いて書かれた本が2冊送られてきた。

 太志命先生が神界に逝かれて20年以上が経った。先生が社会的にどのような評価をされているのかは判らなかったが、この2冊の本は先生の功績と人柄に付いて書かれている。

 1冊は日本神道の“神ながらの道”のなかで、天上の神界からの神示により皇室を守護した太志命先生の事跡を記した本である。著者は30年近く読売新聞に勤務した記者で、神界の瓊々杵尊から太志命先生に与えられた御神示・神勅を神文で載せている。

 もう1冊は神界に帰られた太志命先生を偲ぶ文集である。編集は元官房長官を務められた藤波孝生氏。冒頭には、祝詞集などでよく眼にしていた神宮の祝詞を書かれていた大崎千畝禰宜の、流麗な祝詞が掲載されていた。昭和46年に内宮神楽殿で奏上された、神武参剣道場20周年記念祭の奉告祝詞である。

 この文集は、太志命先生が昭和天皇直属のブレーンであった西園寺公より陛下の霊的庇護を懇願され、それに従って続けられた50年に亘る御神業の偉業を称えている。

 そして藤波氏や映画製作者の角川春樹氏を始め、先生のひと言で大きく人生を好転させた人たちの、感謝の言葉が数多く綴られている。作家の半村良氏や山田風太郎氏なども先生の許に通われていたようだが、角川春樹氏は、“人間にして、既に神である方は、小泉太志命以外には、私は会ったことがない。”と述べている。俳優の夏八木勲氏は、先生との出会いで、不本意な生き方から、“一瞬にして周囲の景色が鮮やかに一変したように、のびやかで自信に満ちた自分を取り戻すことが出来たことを思い出します。”と記している。

 また「学者はにごりを取り去って、覚者(かくしゃ)にならなければならない」と諭された学者も居る。角川氏と同様に先生を神そのものと崇める宗教者や事業家も居る。霊人・神人と称えられるのは、生きながらその御霊魂を祀られたことからも感悟できる。

 このような無私無欲を貫き、一剣萬生・一刀萬殺の神武参剣の法則で以って諸悪の邪を祓い、草莽の陰からひたすらに日本と皇室の弥栄を祈念し、世の人々に光明を与えた人はほかに見当たらないと思う。

 青森県八戸市ご出身の太志命先生は27歳だった昭和13年当時、立命館大学で教鞭を執られていた。この時、国學院大學の創設や日本大学の創始に尽力し、神宮奉斎会の会長も務めた今泉定助翁に客分の扱いを受けていたと言う。定助翁の門弟には小磯首相や笹川良一氏、児玉誉士夫氏など錚々たる人物が居る。太志命先生がこの定助翁の客分に招かれていたことは、国の行末を左右する一人と目されていたことに他ならない。

 太志命先生は2・26事件に連座して約1ヵ月拘留されたが、昭和天皇は藤波元官房長官より先生の近況を幾度かお聴きになられたそうだ。先生は表舞台ではなく神武参剣道場に籠り、神剣を振るい、ひたすら天皇家と国家の安寧のための神業を尽された。このような神業に就かれて居なければ、或いは国を動かす要人になっていたのかも知れない。

 権力の魔力に取り憑かれ、首相の座にしがみ付く元市民運動家に振り回されている政局は、醜態と混迷の度合いを深めている。

 我われは国の未来を託す指導者の選択を間違いなく誤った。

 混沌とした罹災地の中から日本は再生復活の緒に着いた。いま、世直しのための、心の支柱となる小泉太志命大先生の再臨を、人々は待ち焦がれている。

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