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2012年2月

神社参拝代行の是非 ①

―「講の成立と代参について」―

 
先週の火曜日、國學院の院友会館で2,30分ほど日本テレビ午後の情報番組・ミヤネ屋の取材を受けた。その収録が昨日放映された。お笑い番組などでの露出はなるべく控えているが、今回の取材の内容は“受験の合格祈願を代行する業者の代理参拝をどう思うか、その行為に賛成か反対か”がテーマ。

 神社に行く時間を勉強に充てた方がいいと云った受験生や、神社も何か方法を考えたら、と言った識者も居たが、結論から云って二者択一なら当然反対だろう。

 依頼者に真摯な祈りが無く、金銭だけで繋がる赤の他人に頼んだ祈りにご利益があるなんて思えない、だから反対!。

 こんなの気休めの代行だ。神さまを名目に商売するな、といつも講座で言っているが、代行業者は違法では無いからと止める気はないようだ。神社側も座視できず困惑している。とは云うものの需要と供給のバランスもあるし、そうとばかり云っていられない現実もある。

  大きな神社には参拝者も多く集まる。かたや教員や会社員との兼業で親から受け継いだ小さな神社を守っている例も多く、数からすれば圧倒的に小規模神社の方が多い。今回は大きな神社の悩みだ。かつて神社を束ねる神社本庁が、神札やお守りを郵送するのは尊厳を損なうと自粛を求める通達を出した。だが、現在は当たり前のように神札やお守りの郵送は行なわれている。役所のような名称だが民間の一宗教法人に過ぎない神社本庁では強制力が働かないのか、傘下の小規模神社で通達を無視したのか、或いは神観の考え方が違うのか、神札やお守りの郵送はなし崩し的に行なわれている。旧官国幣社でいまは別表神社と称する大規模神社から評議員や役員を出している神社本庁の指導部と、傘下の大多数の小規模神社との間には思惑に違いがある。遠方で不便な場所にある神社のご神徳を伝えるために、神札やお守りの郵送は当然認めるべきだ、と云っていた神職が居た。いまどうなっているか分からないが、神札のプリントアウトを考えた神社もあった。今回の代行参拝のことでも、神札やお守りの頒布率が上がればいいと思っている神社もあるかも知れない。

 他人に代って詣でる代参のルーツは、「講」の存在に行き着く。いまの國學院にはたいした先生は居ない、昔は凄い先生が何人も居た、は私の口癖だが、かつて講について詳しい先生が居た。資料を探しながら講について書いておきたい。

 講の起源は奈良時代に遡る。当時、伝来した仏教の興隆を計りながらも、国家が寺院や尼僧に対して管理統制を行なった。国家主導による国家仏教体制を目指したのだ。

 その一方、天台宗はじめ奈良仏教の僧侶たちは、国家鎮護や護国の教典の研究に勤しんだ。このように仏典を研究して同じ信仰をもつ集団を指して、講と言った。やがてその信仰集団に公家たちが加わり、寺院に公家たちが集団で参詣するようになる。

 平安時代になると、仏教的な起源をもつ講は、次第にそれぞれの地域で古来の原始的な自然信仰形態と習合するようになる。それが田の神講、山の神講、地神講、海神講、日待講、月待講などとも変容していく。

 更に、集落の氏神や鎮守を信仰する講とも言うべき氏子集団、地元の観音堂や地蔵堂での観音講や地蔵講、阿弥陀講、念仏講、大師講、そして他郷の名刹などに参拝する講など、その土地に密着したさまざまな講が地域社会から発生し、その土地の風習として定着していった。のちには一つの共同体集落で、幾つもの講が併存する状態ともなる。

 このように地域社会から発生した講とは別に、次第に外部の働きかけで出来た講が各地に現われる。

 日本古来の原始的な山岳信仰と、仏教の密教的信仰とが習合した修験道の影響は大きい。山中に奥深く入り修行を積んで霊験を習得し、この呪力をもとに救済活動を行なう修験者が、村落へ出て講を組織していった。縄文から続く、原日本人の大自然の山や森や磐座に対して根付いている山岳への信仰心が、民衆を霊山の参拝へと向かわせた。

 修験道は平安時代には形を整え、各地に霊山を開いていった。東北の出羽三山、金華山をはじめ、榛名、二荒山、笠間、三峰、大山、戸隠、秋葉、富士、立山、御嶽、白山、熊野、愛宕、大山、三輪、大峰、金峰、石鎚、霧島、英彦山等々、各地で修行者の道場が建立され、そこに登拝を目的とした数多くの講が出現した。

 中世には、霊山信仰を勧誘する修験者と同じように、伊勢の神宮や熊野社が、参詣を勧める下級神職である御師の活動で各地に講を組織化していった。この伊勢講や熊野講に続いて近江の日吉社、大和の春日、京の賀茂、石清水八幡、地方の金刀比羅、稲荷、大宰府などの有力社の講も次々に創られていった。神道的要素を備えながらもそれぞれ特徴のある信仰支援の集団となった。

 更に時代と共に多様化する講は、一方で商人や庶民の頼母子講や無尽講など相互扶助的な組織ともなる。講は宗教や経済活動をする仲間の一呼称となり、近世には同業者の集まりである恵比寿講や大黒講がうまれ、遊びのための集まりが、将棋講、無礼講などとよばれるようになった。

 近世以降はさまざまな形態の講がつくられたが、その土地の慣習として、講に加わると一人前の村人として扱われる例が多い。村落に住む権利と義務をもつ証しともなったのだろう。講は祭礼や集落の寄合いの準備や世話、屋根葺き、葬儀の協力など、共同体の扶助的な機能を持つようになった。

 そのなかで信仰集団の講は、神社などに参拝して祈願するのが目的だ。その講に所属する全員が参加して参拝する総参りの総参講が理想だが、遠隔地や交通の不便な処では、参拝に代参者を立てる代参講なども出来てくる。

 代参とは他人に代って神仏を参拝することだ。もともと習慣として、各地の講が信仰する社寺に、一生に一度は参拝するものとされた。土地により違いはあるが、代参者に選ばれると本人とその家族には、幾つか守る規則があった。代参者となるとその期間は潔斎が求められる。代参者の留守宅の物忌みも厳しい。出発の際には講としての神事の拝礼がある。直会があり終わると代参者は集落の境まで送られる。代参者は講の代表として崇敬する神社に参拝して祈祷し、神楽を修め、神札を受けて帰郷する。講の人たちが出迎え、会食して神札などを配る。

 当然だがこの代参には地縁・血縁に繋がりのある者が選ばれる。そして講の代参者が受けた神威は、講の人たちに平等に行き渡ると信じられていた。

 地域共同体から一定の時期に出向く代参は、年間の行事として決められていることが多い。なかには清水次郎長と森の石松のような上下関係から、不定期に代参に出ることもあった。

 いずれの場合も、送り出す方と代参者はしっかりと信頼の絆で繋がっていた。祈りを託す代参には、村落そのものの信仰心が籠められている。それは心の拠り所として共同体のなかで培われ、習俗として歴史を重ねてきた。
 

        未完・次回へ

 

 

 

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