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神社参拝代行の是非 ②

―「講の成立と代参について」―

日本の習俗として定着していった信仰支援の集団である講などでは、代参に村落の信仰心が籠められていた。送り出す村民と代参者とは霊的に繋がっていた。祈りを託す代参が、共同体の心の拠り所だった。

四国で生を享けた弘法大師が、四十二歳で霊地八十八ヵ所を開いた。そこは大師への信仰から巡礼参拝する遍路となった。

これを代行する業者が居る。生業として成り立っているかは分らないが、既に市民権を得ているようだ。金額も高そうだ。

戦後、道路が整備され、徒歩から車での巡拝が可能となり、次第に信仰性を薄めた観光化された巡礼ともなった。千四百キロの道程を巡拝するのは、確かに肉体的にも物理的にも負担が大きい。時間のかかる巡拝を、途中か或いは最初から身代わりを頼みたくなるのは解らないでもない。信仰が昂じてと云うより、信仰の希薄化が、このような遍路を代行する職業を生んだ。

だが、四国巡礼は弘法大師の追体験を願う形容あるものへの追慕だ。巡礼代行の譬えは悪いが、スターならぬ信仰の追っかけを依頼するようなものだ。代行を頼んだとしても、信仰の行脚の疲労も無く、聖なる土地の空気や風を感じることも無い。大師信仰が昂じて巡礼代行に行き着いたと思いたいが、そこに血の通った真の信仰は無い。それは単なるファッションで自己満足に過ぎない。かつて業病とされたハンセン病の人たちが、崩れかけて変形した顔や手を隠し、偏見と闘いながら遍路を続けた。救いを求める信仰こそが生きている証しだった。

そのような信仰心が代行の依頼者に多少でもあれば、依頼を思い留まる筈だ。

そして、言われている受験合格の代理参拝だが、繰り返しになるけど金銭だけで繋がった赤の他人の代参者に、祈願者が望むような神威を戴けるとは思わない。そこには講や親分に代って為される真摯な祈りが無い。それは単なる気休めの代行だ。

参拝に行けないほど魂の余裕が無いようなら受験後の長い人生が心配、これは“霊的替え玉受験みたいなものではないか”とツイッターに書き込んでいた受講生がいたが、全くその通りだ。交通が不便だった時代ならいざ知らず、鉄道や高速道路が発達したいま、五体が満足で本気で神に祈る気持ちがあるなら、自分が参拝して神前で頭を垂れるべきだ。

或いは、身体の不自由な人や病弱な人が代参を必要とする場合もあるだろう。真剣な祈りと願いを、神に聞き届けて貰うための代参を、身内や親友に頼む場合もあり得る。神仏を問わず、真心を尽くす祈りには敬虔さが伴う。そのような信心を持っていると依頼する方も相手を選ぶだろう。弘法大師信仰から成立した遍路の代行が広告などで容認された観があるのに、神社での受験合格祈願の代理参拝では何が問題になるのか。仏教と神道とでは違いがあるのか…。

仏教は6世紀に教義教典と共に伝来し、国家の奨励もあり瞬く間に全国に拡がった。釈迦の教えは次第に日本的に潤色されていった。教典や理論に忠実で戒律を厳守する自己修養的なチベット仏教や東南アジアの上座部仏教と、日本に根付いた仏教とは明らかに違うところがある。本来、仏教は先祖崇拝など言っていない。お盆や彼岸などは日本古来の習俗を仏教化したものだ。更に、大自然と四季の移ろいの中で過ごして来た我われ祖先の持つ“秘すれど尊い”という眼に見えぬ神に抱く畏敬の念を仏教は取り込んだ。そしてそれは日本の精神風土に合わせて秘仏化していった。

東南アジアやチベットなど他の仏教国では装飾されて鎮座する仏像が多い。それに較べて日本の仏像は露出度が少ない。普段は本尊を厨子に収め、日を決めて参拝者に公開する“開帳”という習慣ともなった。中国では文盲の民衆に仏教劇を見せて布教を計ったが、仏像や伽藍や劇など仏教は視覚に訴えるところがある。各地に建立される寺院に倣って神社も創建されていく。そこには寺院の仏像とは違い、神社に祀られる神の姿は眼に見えない。日本人の心性の基底には、自然のなかの見えない神への畏敬が、縄文時代から培われていた。自然のなかの神奈備や磐座に降臨していた神は、集落近くに創られた神社という空間に鎮まり、人々はそこに詣でるようになる。神社に鎮まった眼に見えない神は、人々の信仰心に支えられ心の拠りどころとなった。

以前、師の先々代宮司が言っていたことを一度コラムに書いたことがある。

「仏教とは仏の教え。神道とは神の道。道を極めるには難しい…」。神道に教義教典は無いが、その観念が答えの方向性を示してくれる。それはいつも云っている『中今』と『惟神』。

中今とは神道の歴史観でもある。悠久の歴史が進展して行く中で、自分が生かされているいま現在が最も価値あるもの。それ故いま現在を力いっぱい充実させて生き、自分の人生を価値あるものにするため一層の努力する、と解釈されている。また、惟神には諸説あるが、大意は、おのずから神の御心・意志を推し量って生きる、ということだ。善悪良否を判断するとき、自分は神の御心に恥じない行動を取っているのか、と自問すればいい。今回の未曾有の大震災で見せた日本人の他人への思い遣りは、先祖から受け継いだ心の底にある惟神の精神が顕われたものだ。

受験シーズンには天満宮系神社に参拝者が増える。天満宮祭神の菅原道真公は政敵の讒言で九州大宰府に左遷され、慷慨の2年を送り没した。その後の異変は道真公の祟りとされ、怨霊を鎮めるために祀られる。時代と共に怨霊は影を潜め、頭の良さを見直されて天神となり受験の神となった。菅公は弘法大師と同じようにその人となりを知ることは出来る。だが神社に祀られて神話など古来の見えない神と同様の神の扱いを受けている。

神道と仏教を可視と不可視とに分けるのは乱暴だ。だが、師の謂う見えぬ神の道に分け入ることは難しいが、無心な祈りはその足許を照らしてくれる。

代参を語ることで祈りに仏教と神道の微妙な差異を知ることが出来るようだ。中今と惟神の精神から、受験の合格祈願の代行などが許される筈も無いことは自明の理だろう。

 

 

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