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『オリンピック追加競技候補の空手と、國學院・西原健吾先輩異聞!』

 猛暑から一転して初秋のような風情―。怠惰な長い休みから醒めてブログ再開!

 4ヵ月ほど前に月刊空手道に「押忍の系譜」を連載している大林俊紀氏(仮名)から、やっと私に辿り着いたというメールを貰った。大林氏は日大キックボクシング部ОBで健康食品会社経営の傍ら、キックボクシングのイベント運営にも携わっている。私と交流のある國學院キックボクシング部の後輩やスプーン曲げで一世を風靡したK氏とも友人だと云う。用件は空手部の伝説ともなり、語り継がれる西原健吾先輩の情報について―。

 西原先輩は私が入学した年に卒業したが、卒業後もよく道場に顔を出して型などより実戦さながらの自由組手を長時間させる厳しい指導をしていた。

  最近は女子の演武などを観る機会も増え、空手の社会的認知度も上がっている。“オリンピックの追加競技種目に”の声も聞こえるので、西原先輩の件はメールの内容から空手道の歴史を見直す一環かと思えた。

 西原先輩は私が大学に入学した頃、当時すでに渋谷を根城にインテリヤクザとして勇名を馳せていた安藤組の幹部だった。その頃の安藤組には映画スターのような話題性のある幹部が何人か居て、そのうちの一人が当時25歳の西原先輩だった。

 大林氏によれば1958年2月22日、タイ国バンコクのルンビニースタジアムでアーミーライト級チャンピオンと空手着で素手のまま戦った―、という記事が載った当時のタイの新聞を昨年見つけた。これについて日本では全く報道されておらず、大林氏は非常に驚いたという。日本で初めてムエタイと戦ったのは、それから6年後の1964年、極真空手の大沢昇、黒崎健時、中村忠の3人という記録が残っているとか。大林氏のタイの新聞の発見は、それまでの歴史を変えることになる。

大林氏は、外遊など考えられなかった当時、どのような経緯でタイへ渡航し、戦いが実現したのか非常に興味があり独自に調査中だったという。私はОB会の事務局長を16年務めたが、部員減少でろくな成績を挙げられない現状を嘆く私のブログ(第8回・國學院大學 空手道部)を見つけたという次第。いずれにしろ 空手とムエタイとの初めての対戦は、巷間云われていたようなスポーツ空手として急成長してきた極真空手ではなく、伝統派空手であったことの発見の意義は大きい。 調べてみると、大山道場から極真会館に組織変更した1964年にタイ王国へ黒崎健時らが遠征し、エムタイルールで試合をした記録が確かに残っている。 格闘技空手としての選手を育て、海外に派遣しては各地で試合を行い、名を知られてきた極真空手とは異なり、その当時はまだ空手は武道として認識されていた。西原先輩がタイで試合をしてから20年近く経っていた頃、私は寝袋を担いで北アフリカ・マグレブのイスラーム世界を放浪していた。そのときモロッコで、士官学校で柔道を教えている柔道6段の日本人武道家と出会い、ブラジルでプロレスと他流試合をしたという理由で講道館から破門された話しを聞いていた。当時、伝統派空手としては松涛館流・和道流・糸東流・剛柔流が四大流派とされていたが、確かに当時は空手にも破門があり得る武道だった。

 大林氏のメール以後、ОB会名簿をめくり電話をかけ、年に一度のОB総会にも出席して年長のОBに訊ねまわった。しかし半世紀以上前の話しで思い出すのも容易ではない。

 西原先輩と同期の先輩は、“タイに行ったのは覚えているよ、和道流か和道会の本部に尋ねてみたらどうだ”という程度の意見。久しぶりに電話をかけた福岡在住の二期上の主将だった先輩は、“スーツを新調した西原先輩を羽田に見送りに行ったな、どんな経緯か知らないが、確か九州の有力者があの試合を仕掛けた筈だ”という情報をくれた。同じく二期上の会計だった先輩は、“そんなことあったのか?”と全く覚えていない。かわりに当時の別の想い出話しを聴かされる始末だった。私と同期の2人は、“道場で一緒に写真見たよな”、“新聞を見せられた記憶あるぞ”というくらいで、あとは体調や近況で長話しになってしまった。西原先輩の一期下の先輩は、“先輩が安藤組の組員だったことは誰もが知っている。それだからあまり公けにしてこなかったんじゃないか”と云われる。

 正統派の武道空手である和道流の創始者・大塚博紀師範から直伝を受けた西原先輩のタイでのエムタイ対戦は、西原先輩がアウトローの世界にいたことと無縁ではなかっただろう。

 昭和38年(1963)9月、安藤組の大幹部で映画スター並みの人気があった花形敬氏が川崎市の路上で深夜敵対する組の刺客二人によって刺殺された。そして翌39年11月7日、西原先輩は青山のレストランで話し合いをしていた組関係者が恐怖にかられ震えながら放った銃弾3発で絶命した。組長の安藤昇氏は、その数年前に横井英樹襲撃事件で世間を騒がせ、1ヵ月以上逃亡の末に逮捕されて7年の刑に服し、西原先輩が凶弾に倒れた年に仮釈放で出所していた。花形、西原という組の両輪を失い、葬儀では九州から上京した西原先輩のご母堂に、“子が先に死ぬ最大の親不孝は、私の子を最後にしてください”と泣きながら訴えられ、翌月、安藤昇氏は安藤組を自主的に解散した。

 そして連絡を取り合い、大林氏を始め、後輩の國學院キックボクシング部ОBや、安藤昇氏の本を書いている作家の方などと渋谷のホテルで会った。当然、安藤組のことを含め古き良き時代の話しになった。ついでに空手が東京オリンピックの追加種目になる件については、悲観的な意見が出た。空手のことを多少でも知っていれば、空手には多くの流派があり、流派ごとに型や組手のルールの違いがあることも解る。試合の採点にも違いがでてくる。さらには伝統派空手では、相手にダメージを与えない程度当てるか、直接打撃しないで当てる前に止める「寸止め」を採用している。だが、これとは別に、1964年に大山倍達によって創設された極真空手は寸止めではなく、対戦相手に技を当てるフルコンタクトの直接打撃制を用いている。当てるか当てないかの差だが、この差は大きく、これまで極真と伝統派空手の交流を阻んでいた。伝統派の全日本空手道連盟はかつて二、三度大山倍達に加盟を勧めるが、フルコンタクト・直接打撃制にこだわる大山と、寸止めは譲れない伝統派と交渉はうまくいかず決裂した。

 またかつて大山は、極真空手を五輪種目に加えようと画策し、IОCに働きかけたこともあった。だがIОCが安全な寸止めに近いルールを求めたことで交渉が頓挫した経緯がある。「極真会館」を創設した大山は、存命中に世界120ヵ国以上に支部を創り、1000を超える道場を持ち、会員は1200万人と言われた。しかし、平成6年(1994)4月に大山が帰幽すると、後継者の座を巡り主導権争いが始まる。団体は四分五裂の様相を呈し、分裂した団体から更に派生する団体などが40を超えた。未だにその余震は続いている。

 そして今年の4月、空手のオリンピック採用を目指して伝統派と極真の歴史的・和解的な合意が初めてできた。両者が空手を五輪の舞台に上げることを最優先させた結果だ。今後、極真が希望すれば全空連から寸止めルールの指導員を派遣するが、極真側は今回のオリンピックの参加に向けてのみ寸止めを容認し、このルールで勝てる環境を整えていく方針のようだ。極真側では全空連の傘下に入ったわけでもない点を強調し、両団体がこれまでの確執を越えて友好団体として両立させていく姿勢を示している。

 ちなみに五輪の開催都市に与えられる提案権の追加種目を、組織委員会は二次選考で8競技に絞り込んだ。①野球・ソフトボール、②空手、③ボウリング、④ローラースポーツ、⑤スポーツクライミング、⑥スカッシュ、⑦サーフィン、⑧太極拳、の八種目。

 8月初めに各競技のヒアリングを終えているが、9月末までに組織委員会によって選考され、“1乃至は複数”の競技が推薦される。それをIОCに提案し、来年8月の総会で正式に決定される。各々、流派を名乗る空手団体は135を数える。果たして空手は推薦を勝ち取れるのか? もう直ぐ結論が出る。

(“ニッポン・スピリチュアルの世界”7月度 講話会「オリンピックおじさん・山田直稔氏講演会」.配布資料より)

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