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「大麻解禁と医療革命・大麻草CBDオイル」

 麻は人類が繊維を得るために最初に栽培されたがその歴史は非常に古い。エジプトでは紀元前1万年頃には既に栽培され、王の墓に麻栽培の壁画があり、ミイラが麻布で包まれていることも確認されている。

 日本の場合、縄文時代草創期から前期にかけて(約1万2千年~5千年前)の福井県鳥浜貝塚の集落遺跡から麻の繊維や種子が発見されている。秋田県由利本荘市の縄文早期(約7600年前)の菖蒲崎貝塚では、縄文土器の底から炭化した麻の実が出土している。

 麻は短期間で天に向かい真っ直ぐ育ち、神聖で 強い生命力がある強靭な繊維で、魔を除ける呪力があると信じられていた。

壊れやすい土器の表面に麻などを縒(よ)った縄の模様を刻むのは、土器に食べ物を保管する際、魔 (食べ物の腐敗)を防ぐ為に魔除けの縄の文様を施したためと言われている。

 邪馬台国の卑弥呼は魏に麻の布を贈っているが、神社の注連縄や横綱の綱や土俵に麻縄が使われるのは、麻縄に魔除けの機能や意味を持っているからである。縄文時代から捨てる部分がなく生活に利用されてきた麻は、日本人の信仰心と習合して神社のお札や神事には欠かせない神具の象徴となった。

 その麻は大東亜戦争に敗れて上陸した進駐米軍によって禁止され、現行の「大麻取締法」が昭和23年(1948)に制定された。しかし日本に麻の規制を迫ったアメリカでは、現在、扱いが大きく変わって来ている。

 大麻は「産業用」「医療用」「嗜好用」等に活用されている。ガンやエイズの治療などに効果があると言われる大麻は、現在のアメリカでは「医療用」として合法的に使用されており、医療用大麻は全米23州で合法化されている。世界的には21カ国で合法的に使用され、更なる研究の対象とされている。

 そして「医療用」から進んで、昨年2014年1月からは、アメリカのコロラド州で「嗜好用」大麻の販売が合法となり、続いて7月にはコロラド州に倣(なら)いアメリカ西部のワシントン州でも全面解禁となっている。

 昨年の11月には保守的と言われるアラスカ州で住民投票が行われ、21歳以上の成人のみの「嗜好用大麻」合法化法案が可決されて今年2月24日から解禁となった。28gは所持可能で、自宅での栽培も6株まで容認される。同じく2月26日には首都ワシントンD.Cでも成人のみの「嗜好用大麻」が解禁となる。更には7月に5例目になるオレゴン州で嗜好用大麻が解禁になった。

 これまで厳しかったアメリカが徐々に解禁に進む方向性に比べると、解禁のための議論すら盛り上がらない日本はずい分遅れている。そろそろ封印は解かれるべきだ。

_0881_2  アメリカでは酒の販売と飲酒を禁じていた禁酒法時代があった。オバ大統領が「大麻はアルコールほど危険ではない。私も吸っていた!」 と云う 発言は話題となった。ワシントン州ではボトルに入ったマリファナ・コーヒーを売り出したが、続いて大麻の有効成分THCを含有したコーヒー粉を発売した。進みゆく時代と共に法律の改変は自然の流れだ。日本でも世界の趨勢に沿った法律の改正が待たれる。

 最近は「嗜好用」大麻解禁ばかりがニュースになっているが「医療用」の研究も進んでいる。大麻に含まれるカンナビノイドの薬理効果が世界的に注目されている。特に大麻に含有されるCBDの臨床研究では、てんかん、 認知症、 アルツハイマー、薬物中毒、ガン、 発作、 統合失調症などのさまざまな症状の改善が報告されている。

 世界で「医療用」に活用されている大麻だが、特に最近、若年層にも増加しているアルツハイマーや認知症に有効なCBDオイルの可能性は、日本のように高齢化が急速に進む世代には大きな期待を抱かせるニュースだ。

最近、日本でもCBDオイルがつくられるようになった。早速個人的に飲用しているが体調の改善が徐々にみられるようになった。

大麻の取り締りの厳しい日本だが、「医療用」大麻解禁のための運動を見守っていきたい。 (完)

“ニッポン・スピリチュアル”講話会配布資料より

『重陽の節供と菊の香り』

9月9日は「重陽の節供」。

 7世紀の末頃に中国から我が国に伝えられた重陽の節供は、元々旧暦の9月9日の行事で、菊の節供とも言われた。本来、菊は10月が盛りの花だから、いまの暦に旧暦の日付だけを当てはめ、9月の菊の節供といわれてもピンとこない。 重陽とは、陽の数が重なるという意味である。古代中国の陰陽思想では、奇数は貴に通じ吉祥の陽の数となり、偶数は陰の数とされた。一桁の数の最大の陽数である9が重なることで重陽、または重九(ちょうく)と言われた。

 中国の伝説がある。むかし、仙人が弟子に、“今年の9月9日にお前の家に災難がある。家の者に嚢(ふくろ)を縫わせ、それに茱萸(しゅゆ、和名:カワハジカミ)を盛って臂(ひじ)にかけ、高い処に登って菊花を浮かべた酒を飲めば災禍(さいか)を免れる。”と云うので、弟子がそのようにすると家人に災難はなかったが、家畜が身代わりになってすべて死んでいたという説話である。これが重陽の節供の起源とされる。のちに、この日には茱萸を身につけて山や丘に登って山野を眺め、菊花酒を飲んで長寿を願い、災厄を祓う風習となる。また、お経を菊の葉に書き、菊の夜露を飲み、童顔のまま齢(よわい)八百歳を保った菊慈童(きくじどう)の故事もあり、中国の宮廷で重陽には、茱萸を肘(ひじ)に下げ、菊酒を飲んで長命延寿を祝う行事を2日3日と続けて行っていた。

 菊の原産地は中国だが、原種は不明とされる。古来、日本には自生していなかったようだ。その証拠の一つとされるのが日本最古の歌集『万葉集』である。万葉集には4516首の歌が収められているが、自然を詠んだ歌も多く三分の一の、約1500首に植物の名が記されている。(ちなみに一番多いのは140首近い萩、次120首近い梅、意外に桜は少なく五番目で僅か40首余り)江戸時代の万葉集研究で業績を残した国学者・鹿持 雅澄(かもち まさずみ)は、万葉集には157種類の植物が載せられていると謂っている。しかし、この7世紀から8世紀にかけて詠まれた歌集の中に、菊を詠んだ歌は1首もない。それまで、日本に菊は自生していなかっただろうという訳である。

 8世紀には度々遣唐使を送り、大陸からさまざまな文物を導入し、天平文化を開花させた。菊は一この頃に薬用として中国から伝来したとされる。しかし、既に7世紀後半には天武天皇が崩ずる前年の九月九日に、『日本書紀』に重陽の宴の初見とされる“安殿(あんどの)の庭で宴”を催されたという記事があり、このように菊の伝来は、はっきりしていない。

 万葉集にあるように、当時は、花と言えば馥郁とした香りを放つ梅でした。9世紀になると、当時としては中国的な薫りのする菊は、瞬く間に平安貴族の心を虜にして競って栽培されるようになる。菊は上流社会で園芸的に栽培され、華やかな“菊花の観賞”は朝廷儀礼の重儀となっていく。そして時代と共に中国の故事を日本風にアレンジして“菊着綿(きくのきせわた)”という風習になる。菊の花を綿で包み、菊の香りの染み込んだその綿で身を清めれば、長寿が叶うというもの。菊の香りが延命長寿を促すのだ。日本人の感性に香りがフィットしたのだろう。

Photo_3  平安期に貴族に愛好された菊が庶民にも親しまれるようになったのは、室町時代の初期の頃と謂われるが、江戸時代になると、肥後菊のように武士の修道(しゅうどう)として菊が栽培されるよ

Photo_4

うになる。京都の大覚寺で嵯峨天皇が自ら栽培した故事の縮れた花弁の嵯峨菊や、細い花弁が垂れ下がる繊細な伊勢地方の伊勢菊や、開花が進むにつれて花形が変化する狂菊(くるいぎく)の江戸 菊など、さまざまな種類の菊が生まれていく。

 菊は、野山に自生する野生菊と、イエギクと呼ばれる栽培菊とに分けられる。この栽培菊は、大菊(花径18㌢以上)、中菊(花径9~18㌢)、小菊(花径9㌢以下)と花の大きさで区別されるが、開花期でも春菊、夏菊、秋菊、寒菊などに分けられる。栽培菊で最も多いのが秋菊だろう。秋菊は、最近まで日が短くなると開花する短日性を持っていたが、品質改良や日照時間の調整などで周年切り花が生産されるようになった。

 菊を愛好した後鳥羽上皇が菊の紋をつけ始め、いつしか皇室の御紋章にもなった。現在では全国各地で菊花展が開催され、その数は数万とも謂われる。東京だけでも数百はあるようだ。菊は日本人にとって人気があり、また特別な花でもあるのだろう。     

奈良 泰秀     


世界日報・日本文化の歳時記 長月編    
“ニッポン・スピリチュアルの世界” 講話会 大島 櫻彩氏講話会 配布資料  より

【追悼】 『神道界の巨星堕つ』

 山蔭神道第七十九世教主 貴嶺宮名誉宮司 山蔭基央師帰幽

  今年の夏は厳しい暑さが続いた。7月の2週目頃、知人からメールで山蔭基央先生の訃報を知らされた。まだ公表されてないようですとあったが、半月ほどして「お別れの会」の通知を頂いた。7月4日に帰幽。享年89歳。

 心から惜しいと思う先生が逝かれた。

 蒸し暑く、時折り雨の降る8月25日(日) 午後1時、JR豊橋駅構内のホテルアソシァでのお別れ会に参列した。会場には白一色の花の中に敬愛する山蔭先生の遺影が飾られていた。

 定刻に開式。斎主を務めるのは山蔭神道上福岡斎宮宮司の佐々木望鳳馨(のぶよし)氏。佐々木氏はかつて靖国神社に数年間奉職されていた。父上は山蔭神道の重鎮で前の上福岡斎宮先代宮司の佐々木将人(ささきのまさんど)師である。合気道の達人だった将人師範も、今年2月に山蔭先生に先立ち84歳で帰幽されている。

 神道儀式は修祓(しゅばつ)から始まる。その時に奏上するのが祓詞(はらえことば)。神社本庁傘下の神社始め神道系教団などでとなえるが、この祓詞は大正3年に内務省が神社祭式を制定した際に採用されたもの。今回はそれとは異なる七柱の祓戸神のご神名をとなえる山蔭神道独特の禊祓詞(みそぎはらえことば)の奏上だった。古神道系の山蔭神道には秘儀とされる神事がある。大祓詞の隠された太祝詞事の如き神呪(かじり)を唱えるが、神事の行事作法は他の神道系と共通している。

 斎主の祭詞奏上に続き玉串奉奠。ご家族や関係者を始め全国から別れを惜しむ300名近い人たちが、遺影に玉串を手向け冥福を祈った。

 平成15年から5年程この紙上に「神道つれづれ」の連載をしたが、山蔭先生からよくお手紙を頂いた。私の師で霊能者でもある溝口似郎先生とは旧知の仲で、昭和30年代に共に学ばれ、土佐で幾度も話しをされていた。溝口先生は清貧に甘んじながらも敬神の念篤く、神に対する心構えの厳しさを常に説いていた。“良い先生を持たれましたね。”と師を評価してくださる山陰先生のお手紙からは、深い思いやりと暖かさが感じられた。つたない私の記事について貴重なご意見や過分なお褒めの言葉まで頂いた。手紙類は、大切に保管している。お励ましの手紙で気持ちを奮い立たせたことを思い出し、たまに読み返すことがある。

 以前、“「神道を矮小化」しないこと…”と、ご助言を頂いた。“…古代中国はアラビア伝来の天文学を取り入れた。これを学んだ天智・天武の両朝はかなり大きな視野で物事を見ていた。天智天皇の近江朝廷の選定は九星気学の奇門遁甲法に拠った(略)。土木建設の工事を好んだ重祚の女帝・斎明天皇が延べ三万人を動員して築造した〈狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)〉は、陰陽道を取り入れている。いま、中国は中国の中心をローマに置いて考えている。これは孫子・呉子の八陣法の内、鶴翼の陣。極西をアフリカに置き、極東をアメリカとし、鶴首を東南アジアに置いている。壮大な布陣である…。八陣法を拡大していくと神武天皇の御東征のスケールも見えて来る。どうか「戦略的展開」という視野でみてください…。”

 世界的な観点で神道を捉える山蔭先生からは、神道をベースにして世界を視る発想を教えられた。

 平成に入って國學院に戻り神道を学んでいた頃、現在は解体されたが校舎入口のショウケースに箱入りの『山蔭神道』がズラリと並んでいた。それがいつの間にか消えていた。山陰先生にお逢いしたときに顛末を云うと、「神社本庁と喧嘩しちゃったからねぇ」と笑っておられた。先生が神社本庁におもねる筈もないが、“神道”の見解に本庁と先生の間には根本的な相違がある。

 先生の謂われる神道とは、“国家経綸の大道”であり“顕密両道”でなければいけない。だが、“…明治維新により神道の本質は歪められ、本来の自然崇拝から離れ、天皇を戴く国家神道へと変貌を遂げた。内務省神道はキリスト教への模擬であり、このため奇妙な神道となり、結果、「みたま」を知らない神職の群れができた。このままでは神道は孤立して神社も滅亡する…”と謂われた。

 霊学を学ばず、幽霊退治ひとつ出来ず、これでは大麻(おおぬさ)を振る形容(かたち)だけの作法の神社神道になってしまう、という私の記事に、いまの神社神道に最も欠けているのはそれです、と慷慨された。

 “…それ以後、箱物建築で神社を大きくしてきたツケが廻ってきているのです。「カネ集め」の神社なら世界から見捨てられます。それはカトリックと同じです”とも…。

 一神教はいずれ行き詰る。世界は神道に回帰しなければ滅亡してしまう、世界の潮流を変へる神道論を出してください、と仰ってくださったが未だに果たせずにいる。自らも英文神道を刊行された先生の著書は多い。私共の講座に山蔭先生の「百ヶ日修行」を受け先生の書籍は全部揃えていると豪語する受講生がいた。全冊借り受けたが、本の数とテーマの多岐に亘ることに驚いた。目次から拾い読みをして返した本もある。今も送って頂いている『月刊己貴(めざめ)』は最近通刊790号を超えた。この己貴(めざめ)からは、山蔭ワールドを垣間見ている。

 以前、神道つれづれに山蔭先生のご経歴を書いた。終戦直後に中山忠徳卿より山蔭神道宗家を継承し、それを発展させて神道界にしっかり橋頭堡を築かれた。先生が帰幽されたいま闇夜の灯明を失った思いだが、日本神道が先生の標榜された“顕密両道”となるようご努力頂き、山蔭神道の更なる飛躍を願わずにはいられない。 

 山蔭先生、いろいろとご指導を有難うございました。篤く篤くお礼を申し上げます。どうか、ゆっくりとご休息ください。そして時折り、私どもを見守ってください。  合 掌

 

(宗教新聞 10月5日号 掲載)

 

精神世界と、エハン・デラヴィと…

 つい最近、カナダから戻ってきたエハン・デラヴィ氏から電話を貰い二度ほど会った。一度目は都心のホテルの会員制ラウンジ、二度目は私の住まいに近い新横浜でだった。
 エハンと会うのは、去年の7月に彼をメインに二人で講演会をやってから半年ぶり。そのとき対談の本を出そうと話しをしていた。

 エハンは9年前、うちの研究会の第34回セミナーで雅楽や日本舞踊や巫女舞などの“和文化の集い”に知人と一緒にやって来た。紹介され、日本語が流暢なので急遽「外国から観た日本の神道と文化」のテーマをつくり、私の講話の時間をそれに替えた。飛び入りで、締め括りの講演をして貰って以来の付き合い。
 そのとき、エハンには、当たり障りのない“外国人の眼には神道や日本文化はどのように映るのか”、といった軽いテーマでの話しをお願いした。関西弁を交えた外人の洒脱な話術に会場が沸いたが、日本文化を多面的に研究していることは直ぐに判った。来日して日本の文化に非常に興味を持ち、禅や弓道も学んだと言う。その程度のことは多くの外国人もやっている。だが、東洋医学への興味から鍼灸師の国家資格を取得した、となると、並みのひとの出来ることではない。

 エハンはイギリス・スコットランド生まれでケルトの血を引いている。神道とケルト文化との共通性や類似性(自然崇拝や多神教的な神観)などを研究している日本の学者を知っているが、エハンは現在の多様化しているケルト文化をベースに、日本の精神文化との共通性や違いを視てきたようだ。
エハンがこんな話しをしていた。
 日本に来て、駅員に古びた小銭入れを差し出して行き先を告げ切符を買おうとした。駅員は小銭を数え切符代を取り、それから顔を見て云った。“大丈夫ですか?”。訊く意図が分からない。“何が…?”。切符を買うと小銭入れには40円しか残らない。所持金が40円になってしまうけど大丈夫ですか?、という心配を駅員はしてくれていたことに、やっと気付いた。我われならそれ程の気遣いとも思わないが、エハンは、このようにさり気なくやさしく気遣う精神風土の国は世界中どこにも無い、と云う。さり気ない気遣いや奥ゆかしさや譲り合いといった古来伝えてきた日本人の精神性を、彼は美徳として高く評価している。

 半年振りに会ったエハンは、去年の暮れに亡くなった私の長女のことをしきりに気にかけて慰めてくれた。そして自分も還暦だし、今回は日本で骨を埋める積りでカナダから戻って来た、と云う。近況を話したあと、エハンが妙なことを訊く。
 “日本の精神世界のひと達はどの位いると思います?”。
つまり、オカルトや「ムー」や、90年代から急に知られるようになった「日月神示」、フォトン・ベルトやアセンションなどを認めて支持するひと達のこと…。
 “さぁねぇ…”。
 “この精神世界の支持者が、4万人ですよ、たったの4万人!…”。
 この人数は大手広告代理店の調査の結果でたぶん正しい数字だそうだ。エハンが饒舌になった。本を30冊以上も出版しているのに、世間には思うように“自分の想い”が伝わらないことに気付いた。伝えたい思いはたった4万人の世界のなかで、ただぐるぐる廻っていただけではないのか…。この4万人の世界からより大きな世界に飛び出して声を上げないと、自分の想いは拡がらない。日本のことをもっと知らせて世界との架け橋になるような、大きな活動に繋がらない…。

 フォトン・ベルトやアセンションを取り上げて広めたのは、エハンと、これも知人の渡邊延朗氏だ。それらは4万人の世界から飛び出して少しは世間に喧伝された。ひと時は精神世界の定住者も支持者も追随してこれをこぞって唱えた。
 しかし、世間でのアセンションの関心も、アメリカ探検隊がたった一度それを否定したことで急速に萎んでしまった。さらに去年の暮れ、アセンションとリンクした世紀末論の横行に、アメリカ政府が公式ブログに風評を否定する記事を発表した。何も起こさないアセンションは今年に入りすっかり影を潜め、過去のものとなってしまった。東北の震災が原発問題などを表面に顕わにし、揺れ動いた政治も政権が変わり、2012年は一つの区切りを示す年ではあった。特に精神世界に意識変革を促したことは確かだ。
 エハンは去年の早い時期からアセンションに触れながらも、次ぎのテーマを模索していた。ちなみに半年前の講演会のテーマは、メインのエハンが『2012・日本終末論とユダヤの光』。私は『月は東に 日は西に』を題名に“失われた十支族と日本”と、マニアックな講話を選んだ。グローバリゼーションの計略が進められているというなかでのイスラエルに、エハンは関心をもっていた。
 しかしエハンのイスラエルへの想いは届かなかった。時期尚早だったのだ。東から射す光は、西のイスラエルの開かずの門にまだ届かない。

 話しの途中でエハンは鞄から1冊の本を取り出した。今年1月31日付けで出版したばかりの『日本を襲うテロ経済の本質』。表紙に、…日本を護るためにデフォルトした国・アイスランドを徹底取材して掴んだ新事実&世界を救うアイデア…、とある。世界で社会制度が最も成功した国・人口32万人のアイスランドで金融システムが暴走。たがのはずれたマネー・ゲームの果てに2008年末、国が破綻状態になった。これは、国際的なトリックスター(詐欺師)勢力によって仕組まれた陰謀だと謂う。その詳細は、エハン節が冴えて面白い。エハンはこの本をJ・C・ガブリエルのペンネームで著している。今年は巳年だから脱皮して新しい姿で活動する…、という意気込みだった。

 そして4、5日前に二度目に新横浜で会ったとき、エハンは少し憔悴気味だった。胸襟を開いて、といった日本的感性をエハンは充分理解していた。悩みは誰もがかかえている。明日が見えない将来への不安の影が、いまの日本を覆っている。エハンの苦悩も垣間見える。だがエハンはこれを掃うすべを、きっと見つけるだろう。

 今後の方向性は自ずから決まる。
 これから知日派で親日のエハンには、“日本の精神文化大使”の役を是非やって貰いたいと思っている。エハンは市井の生活から観た、文化の源泉にある日本人の精神性とその歴史を語れる数少ない外国人のうちの一人だ。いぶし銀の持ち味で、日本人に日本の文化を伝えてほしい。文化を知り、それを学ぶことは、内向きで自信のない日本人が、失いかけている誇りを取り戻すことに繋がっていく筈だ。
 
 我われの祖先は、日本の気候風土が生んだ自然環境と共生し、大自然万物に坐します神々を敬うこころを育んできた。そのこころが現在の譲り合いやさり気ない気遣い、奥ゆかしさに繋がっている。世界的な環境安全保障機構を創り、その象徴には日本の天皇様がふさわしいと発言されたのはヘブライ大学のベン・アミー・シロニー博士だ。世界の自然保全を語れるのは日本の神道だといつも云っているが、そのような自然環境問題で世界からの発言を促すための“日本人の精神性”を、日本から世界に向けて発信することも、エハンはできる。
 いまの若ものは自分の国の文化にあまり興味をもたない。独自の文化を創り出してきた精神性を外人に説かれれば、興味をもつ者も出てくるに違いない。
 

 友人エハン・デラヴィの今後の活動を期待したい。

ニュースレターから…

  一ヵ月ほど前にツイッターに残しておいたが、評論家の茂木弘道氏から定期的にメールでニュースレターが届く。氏は「史実を世界に発信する会」の事務局長を務める。この会は、“英語ネット圏の「反日プロパガンダ」に対抗するため、史料に基づく日本語の文献をプロが翻訳し、日本への誤解や中傷を回復する著作・論文を纏めて世界に発信する”活動をしているとか。

2日前に届いたメールのタイトルは、“中国人はなぜウソをつくのか ”。北村稔・立命館大教授の小論文と、中国人で九州大に留学して工学博士号を取得した林思雲氏との対談録。
 ―「この中国人のウソつき症候群の心理的分析を歴史にさかのぼって検討したのが、この対談・論文」―。なのだ。
そしてそれは、“結論的には中国人の精神性の徳目の一つとされる「避諱」(ひき)にいきつく”という。
 “これは隠すとか、避けるといった意味で、国家や家族のために不利なことは、事実を曲げてでも隠さねばならない…、それが正しい、という考えである”。さらに、“身内の体面を汚すことはあってはならない。「正直」であるということは、この考え方の前では重要ではなくなる。国家にとって都合が悪いこと、不名誉なことは一切明らかにしてはならない、という「倫理観」である。”と断じている。
(この論文はここ:)http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Chinese-to-Lie.pdf

そして、“独特な(?)倫理観に基づいて積極的にウソをつく中国人”を知らなければ今後の方向性を見失う、と警告している。それを理解しないと、“日本人のみならず、世界中の人たちもとんでもない見当違いをすることになる。”

  きな臭さが日増しに漂う尖閣に就いても、中国を以下のように糾弾している。
“現在、中国政府は尖閣列島を自己の領土であるというウソを平気で主張し、強引にそれを既成事実化しようとしている。”
この意見に異議はない。大方の日本人はそのように理解している筈だ。
“…世界中の人々にこれは全く根拠のないウソであること、こんなことをうっかり許すと大変なことになってしまう!”。そのことを世界に知らせていかなければならない、とは尤もな意見。

そして尖閣問題では、“その絶対的なウソを示す5つの根拠を、すでに我々のサイトでは発表している”。と、その資料を開示している。
(その、[動かぬ証拠5点]:)
 
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Senkaku-Incontrovertible.pdf

この動かぬ証拠となる5点は、尖閣列島の日本領有を中国自身が示している証拠資料。
そもそも、“尖閣列島は1885年以来、日本領土の琉球列島の一部として認められてきた。”それが“1971年、中華民国・中華人民共和国が突如として尖閣列島の領有権を主張するようになった”。
この尖閣列島附近の海底に天然ガスなどの資源の存在が国連の調査で報告された為だ。

それ迄、清朝から現在の中華人民共和国に至るまでは、日本の尖閣領有に異議を唱えたことも無いし、中国がその領有を主張したことなど一度も無い。それは“彼らが尖閣は日本領と認めていたためである”のだ。

その裏付けの証拠となる資料とは、
1)「尖閣群島」「魚釣島」として日本名での表記がなされた1960年に北京市地図出版社刊行の『世界地図集』の存在。国境線も、与那国島と台湾本島の中間に引かれている。
2)1965年に、国境線の位置と日本名の表記から尖閣諸島を日本領と認識していたことがハッキリわかる『世界地図集 第一冊 東亜諸国』の存在。台湾の「国防研究会」と「中国地学研究所」が共同で出版した。
3)中華民国長崎領事からの感謝状の存在。注としてこれは“大正8年(1920)、魚釣島附近で遭難した中国福建省漁民31人を、魚釣島でカツオ漁を営んできた古賀善次氏らが救助して、全員無事に送り返したことに対する中華民国長崎領事からの感謝状”。そこには、日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島と明記されている。
4)“1969年、中国政府によって作成された機密扱いの公式地図では「尖閣群島」は日本領とされている”、と地図を副えた2010年9月15日のワシントンタイムスの記事。“北京政府が金魚台列嶼は中国領であるとの最近の主張を危うくするものだ。この地図は、東京側の領有権主張を支持するものだ”と同紙は論評している。
5)は1953年1月8日の「人民日報」の記事。当時の、“琉球群島の人民がアメリカ占領に反対闘争”の記事で尖閣を琉球群島の領域に記している。

いま、日本の国力は萎えつつある。稚拙な政治運営を声高に批判されているが、右往左往しながらの大衆迎合の政治では明日への展望など無い。この侭では日本は前に進まない。
以前、ローマのタクシー乗り場で車は来るのに“30分も乗れずにいるんです”と途方に暮れていた中年の日本人女性が居た。乗ろうとすると横から来て別の人が乗り込んでしまう。西欧人に対して気おくれもあるだろうが、日本人の“謙譲の美徳”なんて海外では滅多に理解されない。乗り込もうする人を抑えて車に乗せたが、郷に入れば郷のやり方を理解するしかない。日本の近隣諸国と、日本の道徳感などでうまくやっていこうなどと思うのは幻想だ。経済復興に手を貸した中国や韓国に侮られる現状に“金持ち喧嘩せず”などと鷹揚に構えているときでは無い。

いまなら未だ間に合う。日本は高い技術力と経済力を持っている。世界中に眼を光らせている米国との、寄らば大樹の日米安保だけでは心許ない。自衛力を高めるため、日本を縛っている条約や規制を取り払い、日本の身の丈に合った国の護りをすべきだ。
戦前、霊的国防を唱えた宗教者も居たが、神風頼みではいけない。日本の国を、人口減少と共に衰退していかない国にするため、我われは真剣に国の行く末を考えなくてはいけない。

日本の歴史や領土についてもっと関心を持とう。

神社参拝代行の是非 ②

―「講の成立と代参について」―

日本の習俗として定着していった信仰支援の集団である講などでは、代参に村落の信仰心が籠められていた。送り出す村民と代参者とは霊的に繋がっていた。祈りを託す代参が、共同体の心の拠り所だった。

四国で生を享けた弘法大師が、四十二歳で霊地八十八ヵ所を開いた。そこは大師への信仰から巡礼参拝する遍路となった。

これを代行する業者が居る。生業として成り立っているかは分らないが、既に市民権を得ているようだ。金額も高そうだ。

戦後、道路が整備され、徒歩から車での巡拝が可能となり、次第に信仰性を薄めた観光化された巡礼ともなった。千四百キロの道程を巡拝するのは、確かに肉体的にも物理的にも負担が大きい。時間のかかる巡拝を、途中か或いは最初から身代わりを頼みたくなるのは解らないでもない。信仰が昂じてと云うより、信仰の希薄化が、このような遍路を代行する職業を生んだ。

だが、四国巡礼は弘法大師の追体験を願う形容あるものへの追慕だ。巡礼代行の譬えは悪いが、スターならぬ信仰の追っかけを依頼するようなものだ。代行を頼んだとしても、信仰の行脚の疲労も無く、聖なる土地の空気や風を感じることも無い。大師信仰が昂じて巡礼代行に行き着いたと思いたいが、そこに血の通った真の信仰は無い。それは単なるファッションで自己満足に過ぎない。かつて業病とされたハンセン病の人たちが、崩れかけて変形した顔や手を隠し、偏見と闘いながら遍路を続けた。救いを求める信仰こそが生きている証しだった。

そのような信仰心が代行の依頼者に多少でもあれば、依頼を思い留まる筈だ。

そして、言われている受験合格の代理参拝だが、繰り返しになるけど金銭だけで繋がった赤の他人の代参者に、祈願者が望むような神威を戴けるとは思わない。そこには講や親分に代って為される真摯な祈りが無い。それは単なる気休めの代行だ。

参拝に行けないほど魂の余裕が無いようなら受験後の長い人生が心配、これは“霊的替え玉受験みたいなものではないか”とツイッターに書き込んでいた受講生がいたが、全くその通りだ。交通が不便だった時代ならいざ知らず、鉄道や高速道路が発達したいま、五体が満足で本気で神に祈る気持ちがあるなら、自分が参拝して神前で頭を垂れるべきだ。

或いは、身体の不自由な人や病弱な人が代参を必要とする場合もあるだろう。真剣な祈りと願いを、神に聞き届けて貰うための代参を、身内や親友に頼む場合もあり得る。神仏を問わず、真心を尽くす祈りには敬虔さが伴う。そのような信心を持っていると依頼する方も相手を選ぶだろう。弘法大師信仰から成立した遍路の代行が広告などで容認された観があるのに、神社での受験合格祈願の代理参拝では何が問題になるのか。仏教と神道とでは違いがあるのか…。

仏教は6世紀に教義教典と共に伝来し、国家の奨励もあり瞬く間に全国に拡がった。釈迦の教えは次第に日本的に潤色されていった。教典や理論に忠実で戒律を厳守する自己修養的なチベット仏教や東南アジアの上座部仏教と、日本に根付いた仏教とは明らかに違うところがある。本来、仏教は先祖崇拝など言っていない。お盆や彼岸などは日本古来の習俗を仏教化したものだ。更に、大自然と四季の移ろいの中で過ごして来た我われ祖先の持つ“秘すれど尊い”という眼に見えぬ神に抱く畏敬の念を仏教は取り込んだ。そしてそれは日本の精神風土に合わせて秘仏化していった。

東南アジアやチベットなど他の仏教国では装飾されて鎮座する仏像が多い。それに較べて日本の仏像は露出度が少ない。普段は本尊を厨子に収め、日を決めて参拝者に公開する“開帳”という習慣ともなった。中国では文盲の民衆に仏教劇を見せて布教を計ったが、仏像や伽藍や劇など仏教は視覚に訴えるところがある。各地に建立される寺院に倣って神社も創建されていく。そこには寺院の仏像とは違い、神社に祀られる神の姿は眼に見えない。日本人の心性の基底には、自然のなかの見えない神への畏敬が、縄文時代から培われていた。自然のなかの神奈備や磐座に降臨していた神は、集落近くに創られた神社という空間に鎮まり、人々はそこに詣でるようになる。神社に鎮まった眼に見えない神は、人々の信仰心に支えられ心の拠りどころとなった。

以前、師の先々代宮司が言っていたことを一度コラムに書いたことがある。

「仏教とは仏の教え。神道とは神の道。道を極めるには難しい…」。神道に教義教典は無いが、その観念が答えの方向性を示してくれる。それはいつも云っている『中今』と『惟神』。

中今とは神道の歴史観でもある。悠久の歴史が進展して行く中で、自分が生かされているいま現在が最も価値あるもの。それ故いま現在を力いっぱい充実させて生き、自分の人生を価値あるものにするため一層の努力する、と解釈されている。また、惟神には諸説あるが、大意は、おのずから神の御心・意志を推し量って生きる、ということだ。善悪良否を判断するとき、自分は神の御心に恥じない行動を取っているのか、と自問すればいい。今回の未曾有の大震災で見せた日本人の他人への思い遣りは、先祖から受け継いだ心の底にある惟神の精神が顕われたものだ。

受験シーズンには天満宮系神社に参拝者が増える。天満宮祭神の菅原道真公は政敵の讒言で九州大宰府に左遷され、慷慨の2年を送り没した。その後の異変は道真公の祟りとされ、怨霊を鎮めるために祀られる。時代と共に怨霊は影を潜め、頭の良さを見直されて天神となり受験の神となった。菅公は弘法大師と同じようにその人となりを知ることは出来る。だが神社に祀られて神話など古来の見えない神と同様の神の扱いを受けている。

神道と仏教を可視と不可視とに分けるのは乱暴だ。だが、師の謂う見えぬ神の道に分け入ることは難しいが、無心な祈りはその足許を照らしてくれる。

代参を語ることで祈りに仏教と神道の微妙な差異を知ることが出来るようだ。中今と惟神の精神から、受験の合格祈願の代行などが許される筈も無いことは自明の理だろう。

 

 

神社参拝代行の是非 ①

―「講の成立と代参について」―

 
先週の火曜日、國學院の院友会館で2,30分ほど日本テレビ午後の情報番組・ミヤネ屋の取材を受けた。その収録が昨日放映された。お笑い番組などでの露出はなるべく控えているが、今回の取材の内容は“受験の合格祈願を代行する業者の代理参拝をどう思うか、その行為に賛成か反対か”がテーマ。

 神社に行く時間を勉強に充てた方がいいと云った受験生や、神社も何か方法を考えたら、と言った識者も居たが、結論から云って二者択一なら当然反対だろう。

 依頼者に真摯な祈りが無く、金銭だけで繋がる赤の他人に頼んだ祈りにご利益があるなんて思えない、だから反対!。

 こんなの気休めの代行だ。神さまを名目に商売するな、といつも講座で言っているが、代行業者は違法では無いからと止める気はないようだ。神社側も座視できず困惑している。とは云うものの需要と供給のバランスもあるし、そうとばかり云っていられない現実もある。

  大きな神社には参拝者も多く集まる。かたや教員や会社員との兼業で親から受け継いだ小さな神社を守っている例も多く、数からすれば圧倒的に小規模神社の方が多い。今回は大きな神社の悩みだ。かつて神社を束ねる神社本庁が、神札やお守りを郵送するのは尊厳を損なうと自粛を求める通達を出した。だが、現在は当たり前のように神札やお守りの郵送は行なわれている。役所のような名称だが民間の一宗教法人に過ぎない神社本庁では強制力が働かないのか、傘下の小規模神社で通達を無視したのか、或いは神観の考え方が違うのか、神札やお守りの郵送はなし崩し的に行なわれている。旧官国幣社でいまは別表神社と称する大規模神社から評議員や役員を出している神社本庁の指導部と、傘下の大多数の小規模神社との間には思惑に違いがある。遠方で不便な場所にある神社のご神徳を伝えるために、神札やお守りの郵送は当然認めるべきだ、と云っていた神職が居た。いまどうなっているか分からないが、神札のプリントアウトを考えた神社もあった。今回の代行参拝のことでも、神札やお守りの頒布率が上がればいいと思っている神社もあるかも知れない。

 他人に代って詣でる代参のルーツは、「講」の存在に行き着く。いまの國學院にはたいした先生は居ない、昔は凄い先生が何人も居た、は私の口癖だが、かつて講について詳しい先生が居た。資料を探しながら講について書いておきたい。

 講の起源は奈良時代に遡る。当時、伝来した仏教の興隆を計りながらも、国家が寺院や尼僧に対して管理統制を行なった。国家主導による国家仏教体制を目指したのだ。

 その一方、天台宗はじめ奈良仏教の僧侶たちは、国家鎮護や護国の教典の研究に勤しんだ。このように仏典を研究して同じ信仰をもつ集団を指して、講と言った。やがてその信仰集団に公家たちが加わり、寺院に公家たちが集団で参詣するようになる。

 平安時代になると、仏教的な起源をもつ講は、次第にそれぞれの地域で古来の原始的な自然信仰形態と習合するようになる。それが田の神講、山の神講、地神講、海神講、日待講、月待講などとも変容していく。

 更に、集落の氏神や鎮守を信仰する講とも言うべき氏子集団、地元の観音堂や地蔵堂での観音講や地蔵講、阿弥陀講、念仏講、大師講、そして他郷の名刹などに参拝する講など、その土地に密着したさまざまな講が地域社会から発生し、その土地の風習として定着していった。のちには一つの共同体集落で、幾つもの講が併存する状態ともなる。

 このように地域社会から発生した講とは別に、次第に外部の働きかけで出来た講が各地に現われる。

 日本古来の原始的な山岳信仰と、仏教の密教的信仰とが習合した修験道の影響は大きい。山中に奥深く入り修行を積んで霊験を習得し、この呪力をもとに救済活動を行なう修験者が、村落へ出て講を組織していった。縄文から続く、原日本人の大自然の山や森や磐座に対して根付いている山岳への信仰心が、民衆を霊山の参拝へと向かわせた。

 修験道は平安時代には形を整え、各地に霊山を開いていった。東北の出羽三山、金華山をはじめ、榛名、二荒山、笠間、三峰、大山、戸隠、秋葉、富士、立山、御嶽、白山、熊野、愛宕、大山、三輪、大峰、金峰、石鎚、霧島、英彦山等々、各地で修行者の道場が建立され、そこに登拝を目的とした数多くの講が出現した。

 中世には、霊山信仰を勧誘する修験者と同じように、伊勢の神宮や熊野社が、参詣を勧める下級神職である御師の活動で各地に講を組織化していった。この伊勢講や熊野講に続いて近江の日吉社、大和の春日、京の賀茂、石清水八幡、地方の金刀比羅、稲荷、大宰府などの有力社の講も次々に創られていった。神道的要素を備えながらもそれぞれ特徴のある信仰支援の集団となった。

 更に時代と共に多様化する講は、一方で商人や庶民の頼母子講や無尽講など相互扶助的な組織ともなる。講は宗教や経済活動をする仲間の一呼称となり、近世には同業者の集まりである恵比寿講や大黒講がうまれ、遊びのための集まりが、将棋講、無礼講などとよばれるようになった。

 近世以降はさまざまな形態の講がつくられたが、その土地の慣習として、講に加わると一人前の村人として扱われる例が多い。村落に住む権利と義務をもつ証しともなったのだろう。講は祭礼や集落の寄合いの準備や世話、屋根葺き、葬儀の協力など、共同体の扶助的な機能を持つようになった。

 そのなかで信仰集団の講は、神社などに参拝して祈願するのが目的だ。その講に所属する全員が参加して参拝する総参りの総参講が理想だが、遠隔地や交通の不便な処では、参拝に代参者を立てる代参講なども出来てくる。

 代参とは他人に代って神仏を参拝することだ。もともと習慣として、各地の講が信仰する社寺に、一生に一度は参拝するものとされた。土地により違いはあるが、代参者に選ばれると本人とその家族には、幾つか守る規則があった。代参者となるとその期間は潔斎が求められる。代参者の留守宅の物忌みも厳しい。出発の際には講としての神事の拝礼がある。直会があり終わると代参者は集落の境まで送られる。代参者は講の代表として崇敬する神社に参拝して祈祷し、神楽を修め、神札を受けて帰郷する。講の人たちが出迎え、会食して神札などを配る。

 当然だがこの代参には地縁・血縁に繋がりのある者が選ばれる。そして講の代参者が受けた神威は、講の人たちに平等に行き渡ると信じられていた。

 地域共同体から一定の時期に出向く代参は、年間の行事として決められていることが多い。なかには清水次郎長と森の石松のような上下関係から、不定期に代参に出ることもあった。

 いずれの場合も、送り出す方と代参者はしっかりと信頼の絆で繋がっていた。祈りを託す代参には、村落そのものの信仰心が籠められている。それは心の拠り所として共同体のなかで培われ、習俗として歴史を重ねてきた。
 

        未完・次回へ

 

 

 

麻と大和の心

0061  麻の歴史は古い。最古のものは縄文草創期(13000年~10000年前)の大麻製で、縄として使用されていた。7600年前の早期には麻を繊維化しており、前期(6000年~5000年前)には編み物の材料や、種子を食料としたことも土器の付着物から判明している。麻は古くから繊維や食品としての果実、油の化工などに利用されてきたが、大自然の神から授かった神秘な霊力の籠る神聖な植物であり祭祀にも欠かせないものとなった。縄文から続く麻の神聖さと神秘な霊力は、稲作と共に移住してきた天孫族に継承された。

 天孫族が渡来した以前の縄文時代は故意に隠蔽されて来たとも言われている。いまの神道の起源は稲作伝来のこの弥生時代に在る。稲作の伝播は各地に拡散していく。“日本民族は農耕民族”という概念は神道に大きく作用する。

 神話に誰もが知っている天の岩戸開きの場面がある。スサノオの悪行に耐えかねて天照大神は天岩戸に引き篭もってしまう。世界は真っ暗闇となりさまざまな災いが起る。神々は天照大神の再現のための相談をして儀式を行なう。天の香具山の榊を採り上枝に勾玉を、中枝には八咫鏡を掛け、下方の枝には楮の白い幣と麻の青い幣をさげ、その前で天児屋命が祝詞を奏上する。これが神道祭祀の原点となるが、麻は神に捧げる神聖で尊い幣であることが解る。このとき、天宇豆売命が桶を伏せてそれに乗り、踏み鳴らして舞いトランス状態になる。これが巫女舞のルーツ。この桶は乙女たちが紡いだ麻を入れる用具だった。

 麻は神話の時代から身近なもの。そして天に真っ直ぐに向かい逞しく早く成長していくさまに、当時の人々は尊い生命力を感じ、そこに呪術性をも見たのだろう。

 古代人の精神性・感性を伝える4500余首の『万葉集』には、植物を詠んだ歌が数百首ある。そのうち麻を題材にした歌は多くて約五十首ある。春に麻の種を植え、初秋に刈り取る栽培から紡いで織る全行程は、当時の女性の仕事だった。

○ 庭にたつ 麻布小衾(あさて こぶすま) 今夜(こよひ)だに 夫寄(つまよ)しこせね 麻布小衾(あさて こぶすま)  【巻14-3454】  
〔庭に立てた 刈り取った麻で作った夜具よ せめて今夜だけでも愛しいひとを引き寄せてください!。麻でつくった小さな夜具よ〕

○ をとめらが 積麻(うみを)の 絡垜(たたり) 打麻懸(うちそか)け 積(う)む時無しに 恋ひ渡るかも  【巻12-2990】
〔乙女らが麻糸を紡ぐとき 三本の柱の糸巻き用具で 打って柔らかくした麻を丹精込めて紡ぐように 飽きることなど無く 恋し続けるのよ〕

○ 麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 積(う)まずとも 明日きせさめや いざせ小床(をどこ)に  【巻14-3484】
〔麻の糸を桶いっぱいになるまで紡がなくとも 明日お着せするわけでもないでしょうから さあ 誘ってください 寝床に!〕

 当時の若い女性は大らかに自らの意思を詠み、その想いを麻に託している。
最初の歌は京に赴く旅の途上にある夫を想い、夫が居るときと同じように敷いてある麻の夜具に、離れている二人の媒介を願う女の情念が滲むような呪歌だ。麻の夜具を常に敷いて置くのは夫と共に寝るという願いと、夫の浮気防止のための呪術だ。

 二番目の歌は、何人かの乙女たちが、打って打って柔らかくなった麻を細く裂き、それを繋いで糸にする長時間の労働のなかで、積(う)み出される麻糸にそれぞれ自分の想いを託す。休むことなく倦むことなく、真剣に作業する乙女たちが向き合うのは麻。神に仕える巫女の所作のように辛抱強く麻糸を紡ぎながら、抱いた恋心の実現を願う。いつまでも想いが飽きることなく恋い続けている。神聖な麻だからこそ心を晒したのだろう。

 作者不詳の三番目の歌は男女両方からの解釈がされている。「きせさめや」は語義未詳とされるが、大まかな歌の趣旨としては、先の女性からの誘いの解釈と、“そのように麻の苧を桶いっぱいに紡いだとしても、明日着物として着せることができるわけでもないのだから、(或いは、明日も紡げるのだから)さあ来なさい、寝床に!”といった男性が歌ったとする解釈がある。真剣に麻の繊維を紡いでいる若い女性に働くの止めて、一緒に寝床に行こうとの誘いだ。また仕事が出来る明日が来ないわけではないから、と言って女性が誘ったのか、働いている女性のところに来て男性が誘ったのかは定かでないが、古代人の大らかな精神性をもつ生活のなかで、麻が身近な存在であったことは確かだ。万葉集にはこのように麻を詠んだ歌はまだまだある。

 かつて農家の庭先に生えていた麻が消えたときから日本の国力は低下したと言う意見がある。理解できる見解だ。

 神道の祭祀に必要不可欠な麻がもっと検証されるべきだし、麻から日本人の精神性の根幹を探る研究がされていい。同じような考えを持つひとが増えることを切望する次第…。

小泉太志命大先生

 震災からもう4ヵ月が経った。原発事故で放射能に汚染された空気が拡散したが、収束の目処は聞かされていない。集積された瓦礫の処理、インフラの整備などでこれから被災地の復旧には長い時間が必要だろう。
 このような国難とも言うべき大災害の影響は暫く続く。この状況で宗教に携わる者たちがするべきことは、祈りと被災者の心の癒しだ。不幸にも亡くなられた方たちの慰霊、未だ行方不明で彷徨っている御霊の鎮魂、そして残された人たちへの物心両面の支援だろう。
慰霊のため、仏教・キリスト教・イスラームの他宗教の人たちと一緒に寺院と神社で三度ほど祈りを捧げ、祭詞を奏上した。

 震災では神社や仏寺はじめ、新宗教系教団の支部や教会も数多く消失している。被災地で新宗教系のさまざまな祈りと被災者支援が熱心に行なわれている。伝統宗教より庶民生活に密着した新宗教の活発な活動が窺える。未曾有の大震災で我われは宗教者であることの自覚と、宗教者として真摯に祈ることを改めて思い知らされた。

 だが、平時と謂わず戦時と謂わず、“破邪顕正の天剣を以って”唯々、天皇陛下の“聖寿万歳・玉体安穏”をひと筋に祈り、日本国と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粋無邪の生涯を終えた稀有の神人がいる。伊勢の生き神と崇められ、霊剣で天皇を守護された小泉太志命大(おお)先生である。

 かつて昭和63年に本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。同年4月に、香川県三富市高瀬町朝日山に以前祀られていた龍王神の社が再興され、伊勢朝日山本宮として創建された神社がある。此処に生前の小泉太志命大先生の御霊魂「神武参剣大神」が奉斎された。

 天照坐皇大御神を主祭神に龍王神や御鏡姫命、弘法大師、聖徳大師、そして神武参剣大神を祀る神仏混淆のこの神社を継承する女性が、私共の神職養成の講座を受講していた。偶然のことだが、彼女と同期に太志命先生の薫陶を受けた男性の受講生がいた。

 彼は大阪のホテルに勤務していたが受講を修了して退職し、神職となった。現在では太志命先生の御霊魂を祀る天ノ八衢神社宮司を務めている。講座で初めに会ったときは洗練された受け答えからホテルマンの見本のように思えたが、彼の特技は居合道で、全国大会で四段位の部で優勝した剣の達人でもある。

 昨年の秋、所用で大阪に行った折、彼は不案内な私を自分の車で所定の場所へ連れていってくれた。車中で太志命先生に就いていろいろと聞かせて貰った。

 話しによれば太志命先生は伊勢志摩磯部・伊雑宮の森の前に「神武参剣道場」を構え、半世紀に亘り昭和天皇を霊的に庇護された。天皇に関わろうとする邪霊を剣祓えの秘儀でこれを折伏した。真剣を振るう霊術秘法である。毎日何万回と真剣を振られ、魔性の邪霊を切った時には、空を切っているのに刃こぼれが起きたという。そして昭和天皇が薨去された後、自らの神業を終えて数ヵ月後に帰幽されたとか。大喪の礼には海外から多くの人たちが訪れたが、皇室に邪念が行かぬよう鬼気迫る様相で神剣を振られたそうだ。毎日の御神業は厳しく激しかったようだ。

 大阪から戻って暫くすると彼から太志命先生に就いて書かれた本が2冊送られてきた。

 太志命先生が神界に逝かれて20年以上が経った。先生が社会的にどのような評価をされているのかは判らなかったが、この2冊の本は先生の功績と人柄に付いて書かれている。

 1冊は日本神道の“神ながらの道”のなかで、天上の神界からの神示により皇室を守護した太志命先生の事跡を記した本である。著者は30年近く読売新聞に勤務した記者で、神界の瓊々杵尊から太志命先生に与えられた御神示・神勅を神文で載せている。

 もう1冊は神界に帰られた太志命先生を偲ぶ文集である。編集は元官房長官を務められた藤波孝生氏。冒頭には、祝詞集などでよく眼にしていた神宮の祝詞を書かれていた大崎千畝禰宜の、流麗な祝詞が掲載されていた。昭和46年に内宮神楽殿で奏上された、神武参剣道場20周年記念祭の奉告祝詞である。

 この文集は、太志命先生が昭和天皇直属のブレーンであった西園寺公より陛下の霊的庇護を懇願され、それに従って続けられた50年に亘る御神業の偉業を称えている。

 そして藤波氏や映画製作者の角川春樹氏を始め、先生のひと言で大きく人生を好転させた人たちの、感謝の言葉が数多く綴られている。作家の半村良氏や山田風太郎氏なども先生の許に通われていたようだが、角川春樹氏は、“人間にして、既に神である方は、小泉太志命以外には、私は会ったことがない。”と述べている。俳優の夏八木勲氏は、先生との出会いで、不本意な生き方から、“一瞬にして周囲の景色が鮮やかに一変したように、のびやかで自信に満ちた自分を取り戻すことが出来たことを思い出します。”と記している。

 また「学者はにごりを取り去って、覚者(かくしゃ)にならなければならない」と諭された学者も居る。角川氏と同様に先生を神そのものと崇める宗教者や事業家も居る。霊人・神人と称えられるのは、生きながらその御霊魂を祀られたことからも感悟できる。

 このような無私無欲を貫き、一剣萬生・一刀萬殺の神武参剣の法則で以って諸悪の邪を祓い、草莽の陰からひたすらに日本と皇室の弥栄を祈念し、世の人々に光明を与えた人はほかに見当たらないと思う。

 青森県八戸市ご出身の太志命先生は27歳だった昭和13年当時、立命館大学で教鞭を執られていた。この時、国學院大學の創設や日本大学の創始に尽力し、神宮奉斎会の会長も務めた今泉定助翁に客分の扱いを受けていたと言う。定助翁の門弟には小磯首相や笹川良一氏、児玉誉士夫氏など錚々たる人物が居る。太志命先生がこの定助翁の客分に招かれていたことは、国の行末を左右する一人と目されていたことに他ならない。

 太志命先生は2・26事件に連座して約1ヵ月拘留されたが、昭和天皇は藤波元官房長官より先生の近況を幾度かお聴きになられたそうだ。先生は表舞台ではなく神武参剣道場に籠り、神剣を振るい、ひたすら天皇家と国家の安寧のための神業を尽された。このような神業に就かれて居なければ、或いは国を動かす要人になっていたのかも知れない。

 権力の魔力に取り憑かれ、首相の座にしがみ付く元市民運動家に振り回されている政局は、醜態と混迷の度合いを深めている。

 我われは国の未来を託す指導者の選択を間違いなく誤った。

 混沌とした罹災地の中から日本は再生復活の緒に着いた。いま、世直しのための、心の支柱となる小泉太志命大先生の再臨を、人々は待ち焦がれている。

東日本大震災慰霊祭祭詞 ②

東日本大震災被災地の皆様に 謹んでお見舞い申し上げます。

(祭詞を掲載)

東日本大震災 慰霊祭祭詞

(これ)の處(ところ)を仮(かり)の葬儀(はふり)の場(には)と俄(には)かに整(ととの)へ奉(まつ)り 阿波礼(あはれ)(またた)く間(ま)の酷(むご)き災害(わざわひ)に遭遇(あひ)て身罷(みまか)り給(たま)ひし許々(ここだ)の御霊(みたま)(たち)の御前(みまえ)に 宣(の)り白(まお)さく

(こ)は如何(いか)ならむ疎(うと)び荒(あら)ぶる大禍津日(おほまがつひ)の働(はたら)き有(あ)らめや 天運(てんうん)の循環(めぐり)大きく変動(くる)ひて 世界(よ)に稀(まれ)なる激(はげ)しき地震(なゐ)(ゆ)り起(を)こり 山(やま)は裂(さ)け地(つち)は崩(くづ)れ未曾有(いまだしらぬ)(おそ)ろしき勢力(いきほい)の大津波(おほつなみ)押寄(おしよ)せ襲(をそ)ひ来たりて 群集(むらな)す渦中(うづ)に諸人(もろびと)(ら)(おどろ)き逃(に)げ惑(まど)ふも 為(な)す術(すべ)(あ)らず 阿鼻(のどよぶ)叫喚(こゑ)の眼(まなこ)を覆(おほ)ふ凄(いた)(まし)き事態(あらざま)に到(いた)りて 逃(のが)るる道(みち)(な)く 尊(たふと)き御命(みいのち)(お)とし果(は)つるは悲(かな)しくも憤(いきどほろ)しき極(きは)みにこそあれ 未(いま)だ混乱(みだれ)の続(つづ)く郷土(さとざと)は 交通(ゆきき)通信(たより)も全(また)く跡絶(あとた)へ 瓦礫(がれき)の荒地(あれち)と成(な)りて闇夜(とこやみ)の如(ごと)き状態(さま)なれど 由(ゆ)久利(くり)なくも惨事(わざわひ)に遭(あ)ひて神去(かむさ)りし汝(なが)(みこと)(たち)の御霊(みたま)は 今由後(いまゆのち) 彷徨(さまよ)ひの翳(かげ)浄化(きよ)めて惟神(かむながら)の則(のり)の随(まに)(まに)に 浦安(うらやす)く幽冥(かくりよの)大神(おほかみ)の御許(みもと)に到(いた)り給(たま)ひ神々(かみがみ)の御列(みつら)に進(すす)み鎮(しづま)り坐(ま)して 郷里(ふるさと)を最(いと)(すめ)やけく元(もと)の姿(すがた)に立還(たちかへ)らしめむと 再(たて)(おこ)さむ人々(ひとびと)の念(おもひ)を 御心(みこころ)平穏(おだひ)に諾(うべな)ひ給(たま)ひ 哀しみつつ仕(つか)へ奉(まつ)る状(さま)を看行給(みそなはしたま)へと 謹(つつし)み敬(ゐやま)いも白(まお)